「串木野市」は「日置郡市来町」と合併し、平成17年10月11日(火)に「いちき串木野市」となりました。
このホームページは個人的なページであり、筆者の育った旧串木野市の風景や歴史について掲載しています。
南竹 力
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鹿児島の西部、吹上浜の北端に位置し、東に中国秦の始皇帝の命により不老不死の薬を求めて来た徐福伝説のある冠岳を望めます。 古くは金鉱の町として、現在は国家石油備蓄基地があり、鹿児島西薩地区の中心都市として発展しています。串木野港は甑島との連絡口でもあり、遠洋漁業の基地としても有名です。 |
串木野漁港 |
串木野漁港は遠洋漁業のマグロの基地として栄えてきました。近海ではアジ、サバ、イワシなどが採れ、昔ながらの一本釣り漁法によるイトヨリ、エソなどの水揚げで賑わっています。 串木野には串木野漁港(小瀬漁港を含む)の他、島平(照島、屋敷)、羽島、土川、五反田川河口に小さな漁港があります。 串木野漁師の心意気は民謡「串木野さのさ」に代表され、また、近年まで恵比須神社に大漁を祈願するための奉納相撲「漁願(ぎょがん)相撲」が行われてきました。 現在は、串木野漁港(旧漁港)の西側に、串木野新港(商用港)、串木野漁港外港ができ、西薩の中核都市として発展しつつあります。 |
串木野港 | 漁願(ぎょがん)相撲 | 民謡「串木野さのさ」 |
・串木野漁港 ・串木野新港(商用港)、串木野漁港外港 ・五反田川河口 |
串木野港(長崎鼻)灯台 | ||
串木野の景勝の地をあげるならば、串木野港灯台より照島神社(照島海岸)にいたる磯の海岸、また、荒川海岸より羽島崎にいたる、東シナ海の荒波に洗われた海岸線はたいへん美しいです。 出入港をする船乗りは漁港口にある赤灯台、白灯台とともに、この灯台にいろんな思いを寄せてきました。
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照 島 | |
串木野港灯台より東の方へ歩いて10分ほどの照島海岸にある小島。太鼓橋を渡ると照島神社があります。島の西端には文化財りりゅう巌があり、市民の憩いの公園となっています。 毎年四月、近くの照島海岸では「浜競馬」が賑やかに行なわれます。 慶長3年、豊臣秀吉の慶長の役で朝鮮から連れてこられ、薩摩焼の開祖となった陶工達の上陸の地でもあります。
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(H13.4.22)
(H25.4.14 写真提供:いちき串木野総合観光ガイド)
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冠 岳 | ||
冠岳は古代山岳仏教の地であり、真言密教の修験場として古来より知られています。 西岳、中岳、東岳から成り、冠嶽園のある冠岳神社から西岳に至る登山道には仙人岩、護摩岩、煙草神社、阿弥陀堂などがあります。 秦の始皇帝の命を受けた方士徐福が、不老不死の仙薬を求めて渡来し、この地に冠を解いて捧げたので、冠岳の名のついたといわれています。 |
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はるか遠く故国に思いを寄せる徐福の像 |
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冠嶽園 冠嶽園は山岳仏教の地である「冠岳」の縮景と、その名の由来である「方士徐福」を記念して、頂峯院跡地に設けられた中国式庭園です。また、串木野が東シナ海を挟んで中国との友好関係を深めたいとの願いが込められています。 また、冠岳花川砂防公園は中国風の公園として整備され、渓流に木橋の2連橋があり、遊歩道ができています。
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薩摩藩留学生渡欧の地 | |
五代友厚、森有礼、寺島宗則などの薩摩藩の留学生一行19人は、慶応元年(1865年)3月、 串木野羽島崎からオースタライエン号でヨーロッパに向け、密かに出航しました。 留学生が得たヨーロッパの知識は近代日本建設のために大きく貢献しました。
薩摩藩英国留学生記念館が平成26年7月に開館しました
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羽 島 沿岸漁業が盛ん、じゃがいもの生産地です。最近、温泉がボーリングによって湧出し、 新しい名所ができつつあります。 羽島神社境内には、羽島出身の歌人、万造寺斉の歌碑があります。
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土 川 平家の落人伝説などがあり、自然に恵まれた海岸が美しい。 沖合いに沖の島、甑島が見えます。 |
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串木野金山 | ||||
串木野の金山は古くは、藩制時代から、金銀の産出を行っており、昭和の最盛期には 産出量が全国で1、2位でした。現在はわずかに鉱石の採掘と精錬を行っています。 三井観音公園 三井串木野鉱山(株)内の串木野市街地が見渡せる小高い丘にあり、観音菩薩は鉱山事故で亡くなった方を慰霊するため、三井慰霊塔のわきに建立されています。
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串木野駅 | ||
プラットホームにつながる高さの低い地下通路は昔のままです。 新駅舎が2007年3月に開業し、いつも通勤通学に賑わっている。
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民謡「串木野さのさ」 | ||
民謡「串木野さのさ」は、明治の頃に串木野の漁師達がカジキ、マグロを追い、朝鮮沖に出漁したころから、長崎県五島の「さのさ節」を源流として、唄い伝えられてきました。そのさのさの持つ調べが、串木野の港町特有の風土にあい、独特の哀調をおびています。 毎年、7月下旬頃に行なわれる串木野さのさ祭りでは、さのさの調べに振りを付けたさのさ踊りで市中を練り歩きます。市内の各種団体から3,000人以上の踊り手が参加。県内三大流し踊りの一つで大変賑わいます。
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串木野のマグロ漁船 |
昭和30年(1955)代に串木野のマグロ漁業に活躍した木造マグロ(延縄)漁船、特にいろんな法的な制約の中から建造された39トン型は串木野漁業の発展に寄与してきた。39トン型の建造の歴史的な過程、船の構造、漁労、船内生活も含め、その記録を辿ろうとしたが、木造漁船建造時の船図も無く、マグロ漁業史の中の数ページにとどまっている。遠洋漁業の基地であった「旧串木野市」に39トン型のマグロ漁船が活躍してきたことを記録に残そうと、39トン型のマグロ漁船に乗船経験がある元漁師を中心に聞き取り調査を行い、その内容をもとにまとめたものです。 郷土誌: 「串木野のマグロ漁業を支えた 三九トン型マグロ延縄漁船」 (鹿児島大学リポジトリ・共通教育センター) 【第1章 39トン型マグロ船建造の背景】 【第2章 船体の構造】 【第3章 延縄漁】 【第4章 乗組員の船内生活】 【第5章 出港・帰港】 【第6章 遭 難】 【第7章 労働争議】 【第8章 マグロ延縄漁の発展】 (平成26年10月) |
串木野の小型帆船 | ||
鹿児島の漁村では、古くから「薩摩型・薩摩ミヨシ型」と呼ばれる小型和船が、漁労に使われてきました。和船は、漁労期間、漁法、漁具、係留場所の違いによって、それぞれの地域で、独自に発達きました。串木野では一本釣り漁船として昭和35年頃まで使われていました。船大工の技術が記録として残っているものが少なく、漁師であった父(南竹 纓二 、畑山 栄蔵)や古老に聞いたものをまとめたものです。
郷土誌: 「近海漁に使われた 串木野の小型和船」 (鹿児島大学リポジトリ・共通教育センター) 【第1章 小型和船の構造】 【第2章 漁 労】 【第3章 造 船】 【写真資料 南九州地区の小型和船】 (平成30年10月) |
串木野今昔 | |||||||||||
「アーナンチョウカイモ アーソーラ(ソーレ)」太鼓の囃しに、2階建ての祇園山車の後をついていった幼い頃、たくさんの人で長いロープの付いた山車を引っ張り、その前には山車を先導する人、長い竹竿を持ち、山車が電線に引っかからないように、垂れ下がった電線を持ち上げる人。大きな店の前に来ると、山車の下から収納してある三畳程度の床を引き出し、床の下に脚を立てて、舞台となる。観客も大勢集まり、踊りの披露が行われる。踊りの艶やかさと華やかさが今でも脳裏に焼き付いている。踊りの演が終わると、店の主人よりの花(祝儀)を披露する。そして山車はまた駆け出して行く。串木野の街には「八坂山」など2、3台の山車がいたように思う。 平成11年夏、市来 湊町に保管されている山車に出会った。懐かしさと当時見た山車の大きさと比べて小さいように思った。幼い頃の目線では大きく感じたのだろう。市来では4年に1回、祇園祭が行われるそうです。
郷土誌: 「串木野今昔」 (鹿児島大学リポジトリ・共通教育センター) 【第1章 串木野今昔(大正・昭和)】 【第2章 串木野今昔(昭和・平成)】 【第3章 串木野さのさ】 【第4章 漁願相撲】 【第5章 串木野の小型和船(帆船)】 (平成20年12月) |
さつまあげ・かまぼこ | ||
一昔前まではどこの家庭でも、いろんな行事、祭り見物は、料理をお重に入れて持って行きました。その準備に前日から母親は大忙しでした。その中でさつま揚げ、かまぼこ、はんぺんなどは何段か重ねたお重の箱の大部分を占めていたような気がします。 その他の料理として、昆布巻き、がね(さつまいも細切り、ごぼうのささがけを味を付けて小麦粉で天ぷらにしたもの)、シイラなど乾物魚のあまから煮などがありました。 わが家でつくっていたさつま揚げの作り方を紹介します。分量はよくわかりませんのでいろいろお試しください。
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米国集団移住者顕彰碑 | |
昭和31〜32年に、串木野から農業労働者として、70人ほど、カリフォルニア州に渡られました。 現在ではほとんどの方が自立され、花卉栽培、果樹園芸経営、工業技師、商店。会社経営に従事され、サリナス市およびその近郊に住んでおられます。
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串木野関連のリンク先 | ||||
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いちき串木野市役所のホームページです | ||||
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地域資源∞全国展開プロジェクト(いちき串木野商工会議所) | ||||
薩摩藩英国留学生記念館 | ||||
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