妙円寺詣り




徳重神社・妙円寺 妙円寺詣りの歌 関ヶ原の戦い余話
徳重神社・妙円寺

徳重神社は明治2年(1869)の廃仏毀釈によって壊された妙円寺跡に
島津義弘公を祭神として建立された。
その後、義弘公の菩提寺である妙円寺(法智山妙円寺)は神社の西側に復興されている。





-----   徳重神社  ------


島津当主の庇護をうけ、石屋禅師が開山した曹洞宗寺院、
島津義弘公が法智山妙円寺を自らの菩提寺と定めた。

 

-----   法智山 妙円寺  -----



元和5年(1617)7月21日義弘公(85歳)が没すると、恩顧を受けた家臣達が
そのあとを慕って殉死しました。
殉死の地は加治木や福昌寺とまちまちで当時、殉死は薩摩藩としては禁制で
ありましたが、家久(義弘の子17代藩主)はその志を哀れんで、13年経った
嘉永9年(1632)になって、妙円寺境内のこの地に13名の地蔵塔を建てられ、
永く後世に祭られてきました。

 平成元年7月
日置市教育委員会





-----   島津義弘公殉死者13名地蔵塔  ------





神社の脇にひっそりと佇む仁王像


関ヶ原の戦い


関ヶ原の合戦は東西両軍の総勢20余万の天下分け目の戦いだった。慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原の地で合戦の火蓋は切られ、合戦は午前8時頃はじまり、昼過ぎには大勢が決まっていた。
島津勢一千余は14日に行動を開始、早朝に関ヶ原北国街道寄りに布陣、石田三成の度々の出陣要請にもまったく応じず、臨戦態勢でほとんど動こうとしなかった。
午後2時、西軍がことごとく敗退した今、徳川麾下の井伊直政、本多忠勝の攻撃を期に敵中突破を行うべく、鋒矢形の突撃体形をもって駆け出しはじめた。敵に向かい、前へ前へと退却することであった。
敵陣を切り崩しながら家康の本陣の前を通過し、豪雨の中、関ヶ原の東南の烏頭坂にいたった。東軍の追撃も激しく、副将 島津豊久は維新入道の猩々緋の陣羽織を着て追撃勢に突入、また家老の阿多入道盛淳は十字の家旗を振りかざして奮戦した。
関ヶ原を脱したときは維新入道のまわりの人数は80人をかぞえるにすぎなかった。敵地伊賀で土冦を蹴ちらしながら通過して、奈良、大阪を経て堺から、瀬戸内海を通って日向に上陸し、故国へ帰った。

関ヶ原合戦図屏風の一部を掲載(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)





妙円寺詣りの歌


作詞 池上 真澄
作曲 佐藤 茂助

妙円寺詣りの歌

1、明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて
 嵐はさっと吹くき渡り 万馬いななく声高し

2、銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ
 天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原

3、石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢
 占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり

4、名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや
 我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす

5、東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ
 二十余万の総勢の 勝敗何れに決戦や

6、戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川
 松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき

7、前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど
  精鋭一千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう

8、蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく
 西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色

9、家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと
 関東勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる

10、かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに
 勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ

11、払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり
 剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん

12、運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい
 奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます

13、譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と
 鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふるう

14、篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮
 風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや

15、薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂
 たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり

16、骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を
 見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し

17、賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて
 兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て

18、欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉ら
 くつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し

19、牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして
 駒野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う

20、献策遂に容れられず 六十余年の生涯に
 始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に

21、興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし
 壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり

22、無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん
 仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや









 

妙円寺詣り行事大会・妙円寺詣りフェスタ2012(日置市)


関ヶ原の戦い余話

伏見城入城の拒絶

島津家の伏見屋敷で起こった義弘の子の忠恒(家久)が、家老の伊集院忠棟
(日向都城の城主)を手討ちににしたため、殺された忠棟の子の忠直が都城
の居城にたてこもって抗戦した。この島津の内紛に対して、石田三成の口出し
があったが、家康は島津家に対して好意的であり、いろいろと面倒を見た。
伊集院の乱がおさまってから、4月27日島津維新入道義弘は上方にのぼって、
大阪城で家康に会い、礼を述べている。会津の上杉征伐に家康が出かける時、
伏見城の守将を依頼されたことで、徳川側方につこうとしていた。
義弘は国元に兵糧、弾薬の要請をしているが、朝鮮出兵や伊集院の乱で財政が
ひっ迫し、また国元が中央情勢に疎く、軍の派兵に応えることができる状態で
はなかった。
家康が東征後に、義弘は伏見城を守るべく、家臣の新納旅庵を伏見城に送り、
島津軍の入城を頼んだが、家康の家臣鳥居彦左衛門元忠はこれを拒み、追い
返した。その後、義弘は三成の懇請にしかたなく西軍につくことになる。




大垣城

石田三成をはじめ西軍の武将は美濃大垣城を本拠にし、岐阜に進軍した東軍と
戦う体制をとっていた。8月23日、島津軍(豊久)は大垣城の近く墨股川(長良川)
に布陣した。一方、東軍は黒田長政らが、墨股川の上流である合渡川を渡り、
敵の背後を突いた。慌てた三成は、義弘の献策を無視して大垣城へ帰ってしまう。
墨股川に残された島津軍に義弘は呂久川の堤防沿いに旗印を立てた軍馬の兵を
配置して、黒田軍を威圧しながら、無事、大垣城に帰還する。
東軍は赤坂(大垣市赤坂町)にある岡山に布陣し、東西両軍の対峙は20日以上も
続いた。徳川家康は兵3万とともに赤坂の前線へ9月14日に到着している。
杭瀬川の戦いの後に東軍が西上して大阪へ向かう気配を見せたことに、義弘は
東軍に夜襲をかけるように進言したが三成は聞き入れず、西軍は大垣城を出て、
関ヶ原で決戦することになる。




島津義弘公(日置市伊集院町)




------- 関ヶ原の戦いより153年後 -------


薩摩藩による宝暦の治水

関ヶ原の戦いで敵中突破を行った薩摩藩に対して、幕府は薩摩藩の勢力が増大する
ことを恐れていた。幕府は薩摩藩にいろんな普請を行わせた。
1753年(宝暦3年)12月 幕府より美濃の国の木曽川、長良川、揖斐川の治水工事
を命ぜられ、総奉行平田靱負以下947名と共に鹿児島を旅立ち、艱難辛苦の末、
1754年2月より1755年3月まで割腹52名・病死33名、総費用約40万両(約300億円)
を要して、無事、工事は完成した。平田靱負は1755年5月すべての工事区域が完成を
見とどけ、工事の全責任を取り自害した。

薩摩義士 〜宝暦治水の偉業を偲ぶ〜
   (岐阜県大垣市 大垣青年クラブ)




鶴丸城(現、鹿児島市黎明館)の東側、城山遊歩道入口にある薩摩義士の碑


奇しくも薩摩藩は1600年に関ヶ原で天下分目の戦いに遭遇し、関ヶ原の戦いの
153年後に同じ美濃の地で宝暦治水(1754〜1755)の偉業をなし終えたことは、
関ヶ原の戦いの268年後に起こる鳥羽伏見の戦い(1868〜)、戊辰戦争など
明治維新の原動力になったのは言うまでもない。


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ページの作成年月日:1996年05月12日
ページの更新年月日:2011年08月28日