関ヶ原の合戦は東西両軍の総勢20余万の天下分け目の戦いだった。慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原の地で合戦の火蓋は切られ、合戦は午前8時頃はじまり、昼過ぎには大勢が決まっていた。
島津勢一千余は14日に行動を開始、早朝に関ヶ原北国街道寄りに布陣、石田三成の度々の出陣要請にもまったく応じず、臨戦態勢でほとんど動こうとしなかった。
午後2時、西軍がことごとく敗退した今、徳川麾下の井伊直政、本多忠勝の攻撃を期に敵中突破を行うべく、鋒矢形の突撃体形をもって駆け出しはじめた。敵に向かい、前へ前へと退却することであった。
敵陣を切り崩しながら家康の本陣の前を通過し、豪雨の中、関ヶ原の東南の烏頭坂にいたった。東軍の追撃も激しく、副将 島津豊久は維新入道の猩々緋の陣羽織を着て追撃勢に突入、また家老の阿多入道盛淳は十字の家旗を振りかざして奮戦した。
関ヶ原を脱したときは維新入道のまわりの人数は80人をかぞえるにすぎなかった。敵地伊賀で土冦を蹴ちらしながら通過して、奈良、大阪を経て堺から、瀬戸内海を通って日向に上陸し、故国へ帰った。
関ヶ原合戦図屏風の一部を掲載(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)
関ヶ原古戦場 (Photo by Hiroki MORINAGA , 2019/10/26) )
小池の島津義弘 陣所跡
烏頭坂・長寿院阿多盛淳の墓
島津豊久の顕彰碑・白拍子谷(島津豊久自刃の地)
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