一宇治城内神明城址に建つ、物見櫓
一 宇 治 城
一宇治城は戦国時代の山城で、山の名は鉄丸山といい、一番高い
ところは、144メートルである。今から約九百年前、建久年間、郡司
として着任した紀四郎時清が城を築いて四代130年程居住した。
これを「古伊集院家」という。その後、島津家の一族久兼が城主となり
新しい伊集院家となった。やがて、文永・弘安の二回にわたり元の大
軍十万が博多湾に来攻、久親・忠親の父子が参加して防戦し、神風
の力も得て撃退することが出来た。この神恩に報いて「神明神社」を
建てた。伊集院氏は四代「長門守忠国」の頃 勢力も強大となり文教
も栄えた。忠国の子二人は僧になり、兄 南仲禅師は郡に広済寺を、
弟 石屋禅師は徳重に妙円寺を建て全国に有名になった。後、南北朝
の永い戦乱が始まり、忠国は南朝に味方し、北朝の島津と戦った。
この功により、従三位が贈られた。伊集院氏の伊集院支配も幕を閉じ、
天文5年(1536)島津貴久が城に入り太守の居城となったが、14年後、
鹿児島城に移り、後は地頭の支配となった。犬之馬場等も、この間に
整った。大手口は伊集院氏時代は荒瀬の方にあったが、島津氏が入って
からは犬之馬場の正面に変更された。
平成8年5月
日置市教育委員会
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