フランシスコザビエル


一宇治城 ザビエル像 ヤジロウの墓 ザビエル公園
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一宇治城



一宇治城内神明城址に建つ、物見櫓

  一 宇 治 城

一宇治城は戦国時代の山城で、山の名は鉄丸山といい、一番高い
ところは、144メートルである。今から約九百年前、建久年間、郡司
として着任した紀四郎時清が城を築いて四代130年程居住した。
これを「古伊集院家」という。その後、島津家の一族久兼が城主となり
新しい伊集院家となった。やがて、文永・弘安の二回にわたり元の大
軍十万が博多湾に来攻、久親・忠親の父子が参加して防戦し、神風
の力も得て撃退することが出来た。この神恩に報いて「神明神社」を
建てた。伊集院氏は四代「長門守忠国」の頃 勢力も強大となり文教
も栄えた。忠国の子二人は僧になり、兄 南仲禅師は郡に広済寺を、
弟 石屋禅師は徳重に妙円寺を建て全国に有名になった。後、南北朝
の永い戦乱が始まり、忠国は南朝に味方し、北朝の島津と戦った。
この功により、従三位が贈られた。伊集院氏の伊集院支配も幕を閉じ、
天文5年(1536)島津貴久が城に入り太守の居城となったが、14年後、
鹿児島城に移り、後は地頭の支配となった。犬之馬場等も、この間に
整った。大手口は伊集院氏時代は荒瀬の方にあったが、島津氏が入って
からは犬之馬場の正面に変更された。

  平成8年5月
日置市教育委員会



ザビエル会見記念の碑



ザビエル会見記念の碑

  ザ ビ エ ル 碑

フランシスコザビエルは、 西暦1506年スペインのザビエル城に生まれた。
イエズス会の宣教師となったが、ポルトガル国王の願いにより、インドや
東洋 の伝道に一生をささげた。マラッカにいた時、日本人ヤジロウに逢った。
彼は ザビエルの人格にふれて弟と共に信者となり、天文18年(1549)
ザビエルを 案内して故郷鹿児島に着いた。時に領主島津十五代貴久は
一宇治城に住んでいたが、 はるばると来日したザビエルのことを聞き、
城内、平城の奥の院にて面会を許した。
ザビエルはヤジロウを通じてキリストの教えや世界の情勢を説いた。戦乱
の中に平和と愛を説く教えに感銘した。又、鹿児島に着いた8月15日は、
貴久夫人の 五年忌の命日でもあり、お盆の日でもあったので、貴久の
母君や家臣一同、心から 温かにマリヤ像を拝した。かくて、貴久は日本で
初めて「キリスト教」の布教を 許可したのである。貴久は35歳、ザビエルは
43歳であった。然し、貴久は翌年、 鹿児島城へ移り、ザビエルも布教のため
京都へ出発した。
伊集院町では昭和二十四年「丸に十字」と「十字架」を組み合わせ、ここに
会見記念の碑を建立した。

 昭和63年12月
日置市教育委員会



ザビエルの像



ザビエル上陸450周年を記念して、城山公園内に建立されました。



ヤジロウの墓

 

旧薩摩街道(県道206号線)の清藤の近くにあり、ヤジロウ(あんじろう)の
墓と伝えられている。ヤジロウについては、あまり記録が残されていない。
マラッカでザビエルが日本への布教を決意するのに大きな影響を与えた人物である。



ザビエル公園

鹿児島市東千石町(天文館の北西側)にある。
キリスト教の布教に訪れたフランシスコ・ザビエルを記念して整備された。
ザビエル滞鹿記念碑とザビエルの胸像があり、横には
キリスト教の教えを説いているヤジロー、ザビエル、ベルナルドの像が立つ。

 





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