串木野さのさ

串木野さのさの歌詞 相撲甚句 Main Page
串木野さのさの由来

ハア〜 百万の 敵に卑怯はとらねども 串木野港の別れには

    思わず知らず胸せまり 男涙をついほろり サノサ 




長崎鼻の落暉 (2003.09)
当時は気象情報を把握するのに晴雨計(気圧計)と永年の感だけが頼りなので、帆船は急激な変化に対応できず五島灘で遭難する船も多かった。
このような操業のなか、覚悟を秘めながら串木野港を出るとき思わず知らず涙した者もあったと思う。沖へ出ても故郷を忍ぶ切なさが歌詞となって唄われた。こうして賑やかな「五島さのさ」が哀調を帯びた「串木野さのさ」に変わっていった。
大正六年頃、八丁櫓の帆船が補助エンジンを据え付つけて機帆船となり、動力化によって船体も大きくなり積載・保存能力も増大した。操業数が多くなり、漁獲量も増えてきたので五島の両港を基地にしていた漁船は長崎港に水揚げし、串木野港に帰港するようになった。
この頃から「五島さのさ」の調子は自然に影をひそめ、独特の「串木野さのさ」として
唄い継がれてきた。
南竹 纓二

カジキ、マグロの延縄漁

明治十六年、島平の坂口仲左衛門は秋太郎(バショウカジキ)を延縄で漁獲する方法を考案した。
本浦の上竹庄兵衛と前瀉長之助の二人の船主はこの漁法を採用すべく坂口さんの指導を受け延縄を作った。
延縄三十尋(ひろ:両手を左右に広げたときの両指端間の長さ、一尋約1.8m)ごとに十二尋の枝繩をつけその端に釣針をつける方法である。
試験操業のつもりで二隻が串木野港を夜明に出港し長崎県対州沖に向かった。
帆走と八丁櫓(ろ)で二日目に漁場に着いた。その夜、鯖(さば)釣りをして翌日その鯖を餌にして投繩したところ思わぬ漁獲を得た。延縄漁は大成功だった。
当時の帆船は氷も多く積めないので魚の保存が利かないし、積載能力もない。わずか三日で満船となり、五島玉之浦港に入港、水揚げした。
試験操業の二隻の成果は早速故郷に知らされた。
結果待ちしていた本浦の帆船二十隻余りは延縄を積んで一斉に串木野港を出て漁場に急行した。各船はそれぞれ大漁して玉之浦港に入港したが、玉之浦にはこんなに大物を扱う問屋が二、三軒しかなかった。
水揚げした魚は海岸の道路に並べられたが、仲買人も少なく販売能力もないので、次の航海には半分の船は富江港に入港することになった。長崎より鮮魚運搬船も回航され、仲買人も出張していて値段も安定した。玉之浦、富江の両港は串木野船ブームでわき、町も賑やかになった。
明治二十二年、延縄の餌に鯖の生き餌が使われるようになり、漁獲高も増加した。そのころの帆船の労苦は並大抵のものではなかった。
早朝、櫓を漕いで玉之浦、富江港を出て、対馬近海の漁場に夕方着き、鯖釣りで夜を明かした。翌日は延縄作業、午後二時ごろになると交代で櫓を漕ぎ船を進め揚縄作業をした。揚縄作業を終えると餌釣りをする。これの繰返しだった。時化模様になると早めに、玉之浦やその付近に避難した。


鯖(さば)釣り

船首を風上に立てるために潮帆(シーアンカー)を流して漂流、両舷に瓦斯灯三個づつで海面を照らし、船員は両舷の船べりに分かれて座り、一本釣の糸を垂れて鯖が食うのを待つ。ぼんやりと灯った瓦斯灯に照らされながら船べりに座っていると昼の疲れで眠気がくる。
うつらうつらとして思い出すのは遠い故郷の家族のことや、愛しい彼女の夢を見る。眠気覚ましには歌を唄う以外になかった。隣の人の歌が子守歌になって眠気は加わるばかり、そこで両舷の対面同士が掛け歌をすることになり、負けたら入港してから、ケット巻き(菓子)を買うことになっていた。どんな歌でも歌詞をたくさん知っていた方が勝だった。


五島さのさ

一番楽しかったのは漁を終えて玉之浦、富江に入港して水揚げした晩、乗組員を労うために町に繰出し全員で軽い宴会をすることだった。
そのとき芸者衆が唄って聴かしてくれたのが「五島さのさ」だった。
この歌が鯖釣りときの掛け歌によく唄われ、自作の「さのさ」もよく出るようになった。
漁閑期になって故郷へ帰ると、若い船員達は浜辺に集まり親友同士でグル−プになって、
掛け歌をして夜半を過ごし、「五島さのさ」が流行のようになって唄われた。


五島さのさは福江島、中通島によって唄い方が少し違う。
串木野漁船が基地としていた福江島の五島さのさのが串木野さのさへ唄い継がれていると思われる。

五島さのさ(長崎県民謡)の代表的な歌詞を紹介する。


牛を買うなら(ネ) 牛を買うなら五島においで  (ハァ ヨーイヨイ)
島といえども昔の原よ  (ハァ ヨイショ)
子牛(べこ)はほんのり赤おびて
四つ足丈夫(足腰丈夫)で 使い良い  (サノサ)

長崎を ちょいと船出しゃ 五島の鯛の浦 奈良尾の浜をば 横に見て
佐尾鼻 樺島 屋根尾島 福江の港に着くわいな

情けなや これが浮世か 知らねども 同じ世界に 住みながら
一つの月星や 西東 わかれて 暮らすも 今しばし

雨風に 明けるその日の 身の切なさよ もう止めましたよ 船乗りを
とはいうものの 港入り 三筋の 声聞きゃ 止められぬ

唄うなら 何が良いかと 問うたなら 磯節 二上り 三下り
米山甚句も 良いけれど五島 じまんの さのさ節




いさり火の塔:海難殉職者の碑、港が見える恵比須ヶ丘に建立されている。

Page Top

民謡「串木野さのさ」

明治の頃から串木野の漁師達は十トン余りの帆船で長崎県五島、玉之浦、富江港を基地としてさば釣りやカジキ、マグロの延縄漁に男女群島近海を操業していた。これらの港の料理屋で唄われていた「五島さのさ」を郷里を偲ぶ哀調に変えて唄ったものが「串木野さのさ」となった。
近年、竹原喬之助氏が海に生きる男の船出の哀愁と留守を守る家族の慕情を込めて荘重に振り付けしたのが踊りの始まりだった。
串木野さのさは掛歌として唄い継がれ、百二十余りの歌詞がある。その中から代表的な歌詞を紹介する。


(ハァ〜) 百万の (ハァ ヨイショ)
敵に卑怯はとらねども (ハァ ヨイショ ヨイショ)
串木野港の別れには
思わず知らず胸せまり
男涙をついほろり (サノサ)

もう泣くな出船の時に泣かれては 船を見送るそなたより
港出て行くこの僕は まだまだ辛いことばかり

今出船 汽笛鳴らして旗振り交わし しばしの別れを惜しみつつ
船は出て行く海原へ ご無事で大漁祈ります

波静か 月さえわたる南の沖で いとし我が家の夢を見る
無事か達者か今頃は どうして暮らしているのやら

こんどまた 大漁してくれ大漁する 誓って港を出て三月
明日は満漁の帰り船 妻子の笑顔が目に浮かぶ

串木野の港よいとこ 一度はおいで 汐路に伸びゆく幾千里
 「沖でかもめに 漁場をきいてよ」(追分)
幾日ぶりかで大漁旗 かじきまぐろの山をなす



落ちぶれて 袖に涙のかかるとき 人の心の奥ぞ知る
朝日を拝む人あれど 夕日を拝む人はない

義理も捨て 人情も捨てて世も捨てて 親兄弟も捨てたのに
捨てられないのが主一人 もとは他人でありながら

いつまでも あると思うな親と金 ないと思うな災難を
九月一日震災に さすがの東京も灰となる

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の吹くように
荒海稼業の我々の 明日の命を誰が知る

夢去りて 人に踏まれし道草の 露の情けにまた生きる
たどる苦難の人生も 涙でくらす五十年



砂白く月清らかな海岸で 好いた同士の語り合い
これが理想の妻なるか やぶれてはかない失恋か

我が恋は 玄界灘よりまだまだ深い いつもあなたにあおあおと
岸うつ波の身のつらさ 岸に砕ける主の胸

夕空の 月星ながめてほろりと涙 あの星あたりが主の船
とびたつほどに思えども 海をへだててままならぬ

やるせなや 泣いて泣かせてかたせ波 串木野乙女の純情を
沖のかもめにことづけて 主さんのもとへ届けたい

雨は降り 波はデッキを打ち洗い 寒さに手足は凍えたと
いってよこしたこの手紙 肌で温めているわいな

身はここに 心はあなたの膝元へ たとえ幾月はなれても
松のみどりは変われども 私の心は変わりゃせぬ

近ければ 顔見て笑う節もある 遠けりゃ空見て泣くばかり
落ちる涙を溜め置いて 主へ文書くすずり水

から傘の 骨はばらばら紙破れても はなればなれになるものか
私とあなたは千鳥がけ ちぎれまいぞえ末永く

主となら 裸でもよい添われるならば 竹の柱に茅の屋根
寝ながら月星拝むとも 三度の食事は一度でも



十五夜の 月はまんまるさゆれども 私の心は真のやみ
せめて今宵のおとづれを 一声聞かせてほととぎす

ひょっとすりゃ これが別れとなるかも知れぬ 暑さ寒さに気をつけて
短気おこさず深酒を 飲むなと言うたがわしゃ嬉し

うぐいすは 梅の小枝で一夜の宿を 枝を枕にすやすやと
恋の夢見て目を覚まし 空を仰いでホーホケキョ



月づくし 吉野の山の春の月 四条河原の夏の月
三保の松原秋の月 田子の浦田の冬の月

歌なれば東雲(しののめ)節か二上りか 米山甚句もよけれども
今時はやりの磯節か いつも変わらぬさのさ節





Page Top Main Page

このホームページに関する感想、お問い合わせ、苦情は下記まで。
ページ作成者: 南竹 力
E-mail   : nantenbo(後に @nifty.com を付けてください。)