串木野今昔(大正・昭和)



串木野今昔(大正・昭和)は父(南竹 纓二、1914 〜1988)が家族に残してくれた随筆「思い出」より、
父が育った串木野の本浦地区の大正から昭和の時代の行事、風習などを編集したものです。

                                                  南竹 力

目 次

  1. 漁願相撲(角力)  [相撲甚句]
  2. 串木野漁港の築港
  3. 漁夫の腰巻き
  4. 薪担(べらいね)
  5. 中尾水汲み(みっくん)
  6. みすん畠
  7. 集い(よい)
  8. 鬼火焚き
  9. 十五夜の綱引き
  10. 貧農のせがれ(堤 清市)
  11. 小学校時代の思い出
  12. 平江の大火
  13. 本浦地区の苗字の由来
  14. 本浦地区の屋号 
  15. 「しんぐゎさんち」と講摩 
  16. 御幣(しべ)立て 
  17. 肝付どんの枇杷 


漁願相撲(角力)


 大概、日曜日を選んで実施された。土曜日に学校から帰ってくると、どの家からも漁願相撲に持ってゆく手料理の匂いが地区一帯に漂っていた。
帰宅すると父と母はつけ揚げ(薩摩揚げ)のすり身を直径50センチ位の大きな擂り鉢に入れて一所懸命擂っていた。目ほがし(板をT字に組み合わし、真ん中の板に穴が空いたもの)を柱にくくりつけ、長いすりこぎ(擂り棒)をさしこんで擂っている。擂り鉢が動くので一人は擂り鉢を押さえ、一人が擂ったり、両人で片手は擂り鉢を押さえ片一方ですりこぎを握って回してやる。
 早速、私も擂り鉢を押さえて加勢する。夕食までにこれを揚げ終える。温かいつけ揚げを試食するととても美味しかった。
夜になると母は昆布巻きをして大きく切った大根、ニンジンなどを煮しめていた。父はその傍らでハンペンを焼いている。煮しめの匂いとハンペンの卵の焼ける匂いが何とも言えなかった。
 私と弟が床に入った後も父と母は夜中の1時まで明日の準備をしていた。
上名と島平から親類が毎年、相撲見物に来るので料理も相当な量だった。明日の祝いに貧しくても全てを叩いて取り組んでいる平和な家庭の姿を今でも思い出す。
 漁願相撲が始まったのは大正13年頃、帆船の五丁櫓時代から機帆船にかわった頃からだと思う。帆船時代は各船が一年中それぞれ不定期に帰郷していたが、動力船になって仕事に区切りがつき、夏場の魚の値段が安く、漁も少ない時期は動力費も考えなければならなかったので5月頃から8月まで休漁期とするようになり、その頃から始まったものと思う。
 漁願相撲の朝になると私たち子供は座敷取りに行った。それも早朝3時には行かないと良い場所は確保できない。名前を書いた杭4本と荒縄、茣蓙をもって行き、少しでも土俵正面を争ってとった。
 真正面の一番良いところは夜中12時頃来て、そこに寝ころんで番をしている人もいた。番をしていないと後から来た人に杭を抜かれることもある。大概、隣近所の人で早かった人が広く場所をとっていて譲ってくれた。帰宅して一眠りしてまた行ってみると大分、位置が変わっていることもあった。このような本浦(地区)を挙げての盛大な行事が太平洋戦争が始まる頃まで毎年続いた。
 私も20歳の時、朋友47名の中から、甚句の歌い手として12名の中に選ばれ、晴れの土俵の上で自作の肉弾三勇士の戦死の模様を甚句にして歌い、観客の喝采を浴びたこともあった。
 漁願相撲に花を添えたのは満20歳になった地元出身の娘たちが奉公先から縁付き一時休暇(えんづきいとま)といって漁願相撲の日は帰郷し、来客の接待、その他で相撲場の花道を往来していることだった。


 敗戦後、本浦の漁業が軌道に乗るまで十年近く要した。船隻も戦前の8割近くに達し、予想以上の水揚げをするようにになった。漁願相撲復活の声が高まり、昭和33年夏、戦後、第1回の角力大会が行われた。
市は戦後、都市計画を実施、夷ヶ丘の墓地も木原墓地に移転して公園化して3年余経過していたが、ここが相撲会場として整備が行われた。
 戦前は本浦青年会主催、漁業会後援で行われていたが、戦後は青年団主催、漁業協同組合、船主組合、船員組合後援で開催された。各船は強制参加でなく自由参加ということだったが、全船帰港して参加した。
取り組みには団体戦があり、主な団体は船主組合、船員組合、漁労長会、機関士協会、無線士協会で、トーナメント方式で優勝旗争奪が行われた。また各部落対抗など一日中賑わっていた。



串木野漁港の築港



 大正11年の頃、先進地の漁村では漁船の機動力化が急速に進み、枕崎ではもう半数以上が機動力化された。串木野でも発動機メーカーが説明会を開き、漁業の近代化を呼びかけていた。村議会なども各メーカー工場や先進漁港を視察したりして、漁船の近代化に伴う串木野漁港のあり方を協議することになった。
 漁港の開発については議会及び地元に異なった意見があり、一つは天然の良港である川を浚渫して漁港とする。もう一つは将来、漁船の大型化を考慮して外港をつくる。この2つの意見は本浦でも2派に別れ対立することになった。本浦地区の対立は深まるばかりだった。村民の意見も2分され、事態は険悪の状態となっていたが、地元の奥田、長谷場、両代議士の意見で政府に河川工事と港湾工事の両方を陳情することになり有志が上京した。
 漁業関係者の動きに並行して有識者の間で築港期成同盟が結成され活発な動きをしていた。これらの築港運動の結果、大正15年、串木野港築港建設が国会で採択され、補助金88万円交付される。総工費205万円の巨額の費用で着工することになった。昭和2年、村及び本浦挙げて築港起工式が盛大に行われた。河川工事も将来進めるという国からの裏付けが取れたため、本浦も一丸となって築港建設に取り組んだ。
 築港の基礎工事をしているクレーン船やその他の船が小さく伝馬船のように霞んで見え、忙しく動いている。この様子を勘場潟の波打ち際に立って静かに眺めていたが、あんな遠いところに防波堤を造って途方もないような港を建設してどんな大きな船が入るのだろうかと不思議に思っていた。 10メートル立方位のケーソン第1号が長崎鼻のドックで出来上がり、進水したときは、そのケーソンを万国旗で飾り、花火を打ち上げ、進水したことを憶えている。
 総工費200万円以上で、このケーソン1基が5万円もするのだと聞いて、子供ながら大変なことだなあと思った。父母よりこの築港は波村仁太郎さんが計画したそうだと聞かされていた。今になって当時の有識者の先見の明に感服し敬意を表している。開港後50年以上を経過した今、当時の有識者は全て故人となり当時を語ってくれる人はいないが、恵比須神社の一角に奥田栄之進、波村仁太郎両翁の頌徳碑が建立されていて2人の碑文の中に当時を偲ばせる。









漁夫の腰巻き

 本浦青年会(戦前)の規範として、中頭(20歳)以下の青年会員は夏冬を問わず出船、入り船の際には必ず、褌と腰巻きで乗下船することとなっていた。もし、ズボンでもはいて乗下船したことが判ったら、その夏の幹部会に呼びつけられ、お目玉を頂戴するか、何らかの制裁を受けることになっていた。
 このことは本浦の風習として、青年の日常生活の中に溶け込んでいた。夏場は白襦袢の小袖にサワイ(モスリン)の腰巻きで銭湯に通い、夕涼みに海岸を散歩していた。冬は着物を着ることが多かったが必ず、白ネルの腰巻きをしていた。腰巻きをするのに先ず必要なのは腰紐である。
 この腰紐が若い男女の縁結びとなった。若い女性は奉公先で彼氏の腰紐を赤や黄、青と色とりどりのサワイ(モスリン)で作り、好きな男性に贈っていた。若い青年はその腰紐の数によって、どれだけ、もてるかのバロメータとなっている。漁閉期に青年達が集まると誰々から腰紐を貰ったと自慢話をしていたものだ。
 何故このような風習が本浦地区にあったかというと、次のような状況が風習を生み出した。昔、串木野港は砂浜だったため、本船が接岸できず、港の中央に錨を入れ、伝馬船で通っていたが、乗下船の際は必ず、伝馬船を砂浜に引き上げ、引き降ろすことになっていた。
 海岸は遠浅で小波もあり、伝馬船の上降には腰まで水に入らなければならなかった。この場合も年上の人たちは伝馬船に乗ったままで、若い青年の仕事だった。そのため、ズボンをはいていては機敏な動作ができなかった。腰巻きと褌ならくるりと捲り動作が早くできたからであった。この風習は港が整備され、本船が接岸できるようになるまで続いた。いや、それ以後もしばらくは続いていたように思う。




薪担(べらいね)

 戦前まで薪担は本浦地区の女性で行われていた。薪担を専門にしている女性達がいた。各家庭からの注文を受け、4、5名の女性がグループを組んで深田や宇都、冠岳などに行き、山の主に3銭か5銭(大正10年頃)支払って、山に入り切り払ってある枯れ枝を集め、自分で担えるだけ束ね(まいけ)、担い棒(やまおこ)にさして担い、本浦に持って帰り、10銭か12銭で売っていた。
 新婚の若い女性達もこの人達について行き、薪担を覚えたらしいが、枯れ枝(べら)を要領よく積まないと、うまく束ねることができないし、担い棒にさし込むことができなかった。行きも帰りも慣れない山路を山草履を履いて肩にくい込む担い棒を右に左に変えて、汗だくになりながら、専門家に遅れまいとふうふう言いながら家路を急いで帰ってくると近所のうるさ方が寄ってきて、この薪は束が太とか小さい(こまんか)といって批評したもので隠れて涙を拭いた娘達もいたという。





中尾水汲み(みっくん)

 本浦地区では中尾水汲みという花嫁に課せられた仕事があった。結婚初夜を明かした花嫁は一番鶏が鳴く午前4時頃起きて、まだ薄暗い中を水桶(たんご)を担いで勘場(当時、家屋は無い)から恵比須ヶ丘の墓地を通って、中尾の田圃の中にある井戸に水汲みをしなければならなかった。
 一辺2.5メートルの四角な深さ3メートル位ある井戸に長柄の柄杓でわずかばかり溜まっている水を水桶に満たし、水が漏れないように鍋の蓋を浮かして担って帰り、身近な親戚の家に行き水瓶を洗って水を満たし、また引き返して水を汲み、次の親戚の家へとまわり、2回も2回も通い、自分の家の瓶に入れるときは午前7、8時になっていた。
 当時、本浦地区の各部落に専用の井戸があったが、お茶の水として使えなかったため中尾水がお茶水として使われていた。この中尾の井戸は深さが3メートル位に底に僅かしか溜まっていないが積み石の間から流れる水はとてもきれいで美味しい水だった。しかし、5、6人も水汲みに行くと水の溜まりを待って汲むので時間がかかり、暗い内に家を出て、人より先に行かないと何軒もの親戚には配れなかった。
 水汲みの娘達の中で兼ねて薪担をしている娘は水桶の担い方ですぐ判ったものだ。薪を担っている娘の水は大きく揺れて(タップンタップン)、水のこぼれが激しかった。母も毎朝、この水汲みに通ったものだ。




三隅畠(みすんばたけ)

 みすん畠というと、誰かがまた騙されたという風評があり、戦前までみすん畠に狐がいて人を騙すと信じられていた。 みすん畠は現在の昭和通り島平道から小瀬に通ずる三角地域で通称みすん畠と呼ばれていた。そここには人肥のため池が多くあり、 臭気を漂わせていた。周囲は畠と田圃で、遠く島平の方に瓦焼き工場が見えていた。ここを夜中に通る人がよく狐を見たとも言い、 また誰々が騙されたとよく聞くものだった。




集い(よい)

 昭和12年頃まで、本浦地区の各部落に集い(よい)という子供達の集会があった。満6歳から14歳までの男児が、 自主的な規制の中で集団行動をしていた。小学校を卒業した子供を古頭、6年生になった子供が新頭といって、 新頭がその子供会のリーダーとなっていろいろな子供の行事を企画し進めていた。部落によって人数は違っていたが、 厳しい規律の中で団結を固めていた。
 その頃、部落のことを向(むき)といっていた。本浦地区には尻釜向(しかまむき)、竹釜向、新潟向(しんがたむき)、 小屋向、勘場向、土佐向の6つの向きがあった。子供会は4つあり、子供の数が少ない尻釜向、新潟向きはそれぞれ竹釜向き、 小屋向きに加入していた。子供会は40名ぐらいで、集会は毎週土曜日の晩に行われた。会員に規則違反はなかったか、 小学生以上は親孝行したこと、叱られたこと、悪遊びをしたことなどを自ら一人一人話すことになっていた。 それらのことについて頭の人たちが注意をしたり、お褒めを与えたりしていた。小使い銭も2銭までとなっているのを子供は 正直なもので3銭使ったと報告、また、どこの向の子供と喧嘩したと報告し、注意を受けたり、叱られたりしていた。 親の方から注意してくれと依頼される子供もいた。年中行事の主なものに正月の鬼火焚き(うねっぽ)、夏の十五夜の綱引きがあり、 各向ごとに行われていた。




鬼火焚き(おねっぽ)



(2005.01.18 市来町大里)

 鬼火焚きの2週間前から、それに使う孟宗竹や雑竹を買うための準備をする。それは金を集めるのではなく、1人で20本当ての薪(たっもん)を集めることだった。自分の家から持ち出すのではなく、親戚や近所の家を廻って集めるのであるが、一軒より1本だけ貰うことになっていた。2人で組んで親戚を廻り、島平辺りまで廻った。島平では一軒で4、5本をくれるところもあったが、子供は正直なもので1本だけ貰って、組んだ2人で5本位貰って島平道を担って帰った。3日で20本になり、頭の家に持って行く、とてもうれしかった。
 その薪を頭の人たちが1把6本にして5銭位で売って歩いた。市価では7銭位するので、すぐ売れた。70把で3円50銭集まり、この金を持って天気の良い日曜日に3年生以上、20名くらいで深田山に竹を買いに行く。孟宗竹1本が50銭、雑竹1把(約30本)が40銭で6把買って持って帰る。弁当を持って行き、山水を飲みながら木陰に集まって昼食するのも一つの楽しみだった。
 鬼火を焚く場所は、竹釜向きは平瀬、小屋向きは須之崎(現西浜町)、勘場向きは勘場潟(現浦和町)、土佐向きは恵比須ヶ丘、小瀬は長崎鼻と、その向きによって決まっていた。鬼火を焚く前日は櫓組みを総出でする。孟宗竹を中心にして雑竹周囲に立て廻し、縄で結わえ、孟宗竹の先端に日の丸の旗を付けて張り縄を四方にして倒れないようにする。灯油を少し買い、夜明けに火を付けられるように準備する。
 準備は夕方に終わるが、夜明けまでが大変だ。それは他の向きの者が櫓を倒しに来るからだ。それも行事の一つになっていた。自分たちの方からも夜中に倒しに廻る。もし倒されたら次の日に昨晩はどこの向きの櫓が倒されたと本浦中にふれが廻り、子供会の恥になった。これを守るため、櫓の近く番小屋を造り、そこに火鉢を持ち込んで5年生以上は交代で寝ずの番をした。新頭の人たちは他の幹の櫓倒しに出かけ、追いかけられたり追いかけたり、番小屋に帰ると、どこの櫓の張り縄を1本切ったとか、捕まえられそうになったとか、どこが一番厳重だったとか大にぎわいだった。
 早朝、全員が集合、親たちも近所の人たちもぞろぞろ集まってくる。日の出の1時間位前に灯油をかけて点火される。パチパチパンパンと音を立てながら炎が上がる。ちょうど同じ頃五地区でも燃やされるので、大火災のように夜明けの空を焦がした。実に壮観だった。中頃になり孟宗竹に火がつき大きな音を立てて倒れる。益々火の手が上がり火の粉が舞い散る。見物人からも一斉に歓声があがる。何とも言えなかった。
 火が収まるとその中に餅を投げ入れて焼いて食べる。1時間半位で櫓の火が消えると、古頭の家に全員集まり、夜番をした人たちが夕べの見張りの様子や夜襲にいって追いかけられた話を面白おかしく話してくれる。炊事場では頭のお母さん達が持ち寄った餅でぜんざいを作ってくれる。そのぜんざいの美味しかったこと、今でも忘れられない。




十五夜の綱引き

 8月15日は青年会(団)の大綱引きの夜、各向き(部落)の子供会による綱引きがそれぞれの向きごとに行われていた。綱作りは親たちの責任で、その日の朝早くから集まってつくられ、子供達が起床したときは、綱が出来上がっていた。綱は部落の中央道路に延ばしてあった。
 子供達は8時頃、綱のところに集合する。5歳から14歳までは白鉢巻きに金色の色紙で好みの模様を張り、固く締め、絣の着物にわら草履、そのいでたちが勇ましかった。5歳から8歳までは、金たらいを持ち、9歳から12歳までは油缶(1斗)の空き缶を持つ。
13歳は漁船の大漁旗、14歳は法螺貝をもち年齢順に2列に並び、法螺貝を吹き鳴らすブーブーの音を合図に一斉に空き缶、金たらいをガンガン叩きながら行進、延べられた綱を一周する。海岸に出て青年会の大綱を一周し、他の向きの綱を廻って歩く。その日はブーブー、ガンガンとても賑やかだった。竹釜向き、勘場向きは子供が多かったので特に賑やかだった。
 他の向きの綱を廻るとき、絶対にその綱を越えてはならなかった。もし、越えたことが判れば部落同志の大喧嘩となった。また道路を廻って行進しているとき、他の子供会と出会うと道を譲らず押し合いとなり、先頭で小競り合いが起こる。できるだけ他の向きの行進と接触しないように道順を変えることもあったが、どの子供会にも喧嘩大将が2、3人はいて、わざと他の向きの綱を越えたり、行進が廻ってくる道を選んで待っていたりした。夕方頃より綱引きをして、青年会の大綱引きが始まる8時半頃終わり、引き続き青年会の大綱引きに参加する。




貧農のせがれ

堤 清市   --- 歯科医師(生福坂下出身) ----


 洋服を着て靴を履いた人が通る。大人も子供も皆頭を下げ、靴の音が月給月給と聞こえた。洋服を着た人は学校の先生か偉い人だけ、女の先生は紫色の袴を付け、靴を履き、ハイカラだった。
夏になると農家では蚊いぶしの煙が部屋の中をもうもうと立ち込める中で、私はランプのホヤ掃除を行った。両親は野良仕事のほか、母は野菜やベラ(薪用の枝)を町に売りに行き、魚や日用品をなどを買って帰り、父は手車に薪を積んで、一束のタッモン(薪)と肥樽いっぱいの黄金水の交換が行われる。
私も2度、3度、父と一緒に行った。
 学校から帰るとそのまま草刈りに行ったり、夕食の用意もした。それも米は僅かで唐芋が多かった。米が煮立つと粟を入れた。申し訳程度の夕食だった。
 母はよく小麦粉と唐芋のネッタボ(団子)を作ってくれた。勉強は学校だけ、試験勉強などする暇はなく、朝から晩まで牛の世話をするのが日課だった。学校に行く前に朝露に濡れた草を刈り、濡れたままの着物で学校へ行く。ほとんど裸足が多かった。冬もワラゾイ(ワラ草履)か、すい(擦り)切れ下駄だった。
 朝礼のとき、それを脱がされ、霜が溶けて足が冷たかった。夕方になると三井(金山)に勤めるキンザンポが古自転車に乗り、流行歌を得意げに歌いながら県道を通った。文明開化の電灯が農家を照らしたが、うす暗い16燭光だった。
私はニセコ(二才衆)に入って間もなく家を出て東京へ行った。限りない苦労をして夜間商業と夜学の歯科医学校を卒業した。貧乏だった幼い頃の生活が私に不屈の闘魂を与えたのかもしれない。私は人に頼ることなく独力で今日の人生を築いたことに限りない誇りと自信を持っている。





小学校時代の思い出

--- 串木野小学校創立百周年記念誌より ----


 木造平屋建ての校舎が校庭を挟んで東と西に建ち、西側の校舎に低学年の男子生徒が入り東側の校舎に低学年の女子生徒が入っていた。また、東側の南の端には裁縫室があり、北側に木造2階建てが並び高学年の生徒が入っていた。東側の1階に教員室と図書室があって、2階正面中心に二千人余を収容する講堂が威風堂々と建っており、大きさだけでなく何か威厳を感じた、それは天皇陛下の御親影が飾ってあったからだろう。講堂に入るには最敬礼して入ったことを覚えている。
 講堂での体育行事は剣道と柔道だけが行われており、校庭は広々講堂を中心に東西100メートルのコートと、前面に楕円形になった200メートルのトラックがあり、全校生徒がどのような体育行事を行っても不自由はしなかった。コートの周囲には10メートル間隔位にポプラやセンダンの木が繁り、二千名余の父兄が木陰を利用して運動会を観覧することができた。
 当時は生徒間に貧富の差が甚だしく、分限者の家の生徒は洋服を着て鞄を肩にかけ、弁当箱を手に持って登校し、貧者の子供は絣の着物に人徳と言うチャンチャンコを上から羽織り、山草履を履き勉強道具一切を木綿の風呂敷に包み肩から斜に背負い、弁当はおにぎりに梅干を詰め高菜(漬物)の葉で包み風呂敷にまるめ、腹に巻いて登校していた。
 当時はまだ士農工商の階級制度の余韻が残っていて、村役場に届出書類を出すときも士族と平民と身分を書いて提出した。士族は郷士として各地に分散していたが、何々どんと言われており、「何々どん」と言われるところは裕福で子供達も洋服を着て靴を履き、きちんと決まっていた。
6年生を中心に登下校も集団でして校内でも一緒に行動していることが多く、偏見かも知れないが威張っているように見え、そのためか浜っ子達との喧嘩が多く、喧嘩は浜っ子達が強かった。ところがその子供達が負けて帰るとあくる日、卒業生5、6人が木刀を持って学校に押しかけてきたこともあった。麓には健児の社(舎)というのがあり卒業生達が毎晩、児童を集め剣道や柔道を教え児童の健全育成に努めており、学枚でのその日の反省をしながら、浜っ子と喧嘩をして負けた報告を聴いた上級生が、あくる日学校に乗り込んで来たらしい、ただ、脅しに過ぎなかったが。
 特筆すべき思い出は厳寒の朝講堂の前で朝礼を受けることだった。霜柱がバリバリ張り詰めた校庭に素足に草履を履いて集合し、長く立っていると草履の下から冷い水が浸み込んで身振るいするような冷さが背筋を走り、あまりの冷めたさに我慢していて小便を洩らす生徒が何人かいた。足は感覚を失い、泣きたいような思いをしているのに、傍に運動靴を履いて平然としている生徒を見ると無性に腹が立って蹴飛ばしてやりたいような気持にかられた。
 半数近くの貧しい児童が学用品も満足に揃えてもらえず、人の授業を羨ましげに見ている児童もいた。算数の時間に運算や試算を大学ノートにしている児童、算数ノートの片隅に試算をして消しゴムで消したり書いたりしている児童、図画の時間に普通の児童はクレヨンで絵を書いているのにクレパスを使っている児童などさまざまであった。せめて大学ノートだけでも1冊欲しかった、大多数の児童はそれが買えなかったように思う。
 汽車が串木野駅で折り返し走っていた、汽笛が鳴ると大原の鉄橋の上に汽車の通るのを待ち、煙を被りながら見るのが登下校の楽しみの一つであった。卒業式にも絣の着物にチャンチャンコを着て参加した。洋服を着ているのは1クラスに2、3人しかいなかった。
 自分達が卒業して60年種々思い出は尽きないが大正時代の特色のある思い出を2、3書いてみた。




平江の大火

 大正11年、私が小学2年生の10月頃だった。
 夜中の2時頃、激しく鳴っている半鐘に。母も弟も驚いて屋外に飛び出した。近所の人達も騒いでいる。火事は竹釜向(部落)だと北に向かって走って行く。北の空は花火のような火の粉が舞い上がり、時々、自分たちの上にも火の粉が落ちてくる。各所を走る手押しポンプ車の手回しサイレンが近く遠く聞こえ、慌ただしく走って行く。
 物見高いは江戸の花と言うが、物見高いのはどこの人も変わらない。まして火事ともなれば男も女も大人も子供も北へ北へ流れるように走って行く。父は留守で弟は恐いと泣いていた。私は母の止めるのも聞かず、大人の中にもまれながら、暗い中を北へ走った。竹釜向だと思っていたら、五反田川、川向かいの平江だった。塩田より先には行けなかった。
 平江橋の手前から黒山のような人集りだった。大人達の間をかき分け一番前に進んだ。他にも子供達が相当いるようだった。西側5、6軒が燃えているようだ。北東に吹いていた風が北西に変わり最悪の状態になったらしい。もう手が付けられない有様だった。ボーボー、パチパチ、ガラガラ音を立てて東へ飛び火して行く。
 見ているうちに東の空が白んでいるのに気づき、急いで帰った。母に大目玉を喰らった。怪我をして帰れないのではないかと心配していたらしい。ろくに寝付かれないうちに起こされ、朝食をそそくさとかき込み鞄を肩に家を飛び出すと平江の方に走った。平江橋は通行止めになっていた。黒山のような人がいた。学校行きの子供達が15人位見ていた。まだ所々、火の手が上がっていて、平江は1軒残らず全焼していた。皆、呆然として見ているようだった。
 人垣の中を潜って先端に出て見ていたが、しばらくして周囲を見回すと学校行きの子供達はいないので慌てて学校へ走った。授業が始まって半時間ぐらい経っていた。遅刻の理由を言わなかったので、その授業が終わるまで席の後ろに立たされた。
<大火の原因>
 大火の原因はいろいろあると思うが、藁葺き屋根が2/3をしめていたこと、道路幅が1メートル位で、すばやく消火活動ができなかったこと、北西の風が強く五反田川の水が思うように使えなかったことなど、悪条件が重なっていた。
 当時の村長、肝付 篤氏は火災に対する悪条件を解消するため、第一に藁葺き屋根を瓦葺き屋根にすべきだと、全村を瓦葺き屋根にするいろいろな施策を講じた。我が家も藁葺き屋根だったが、翌13年、瓦葺き屋根に新築した。本浦地区も半数以上が藁葺き屋根だったが、次々に瓦葺き屋根に変わっていった。平江地区は大火の教訓を活かし、思い切った区画整理を行い、道路の幅も広げられた。




本浦地区の苗字の由来

 これは私の想像であり昔の老人に聞いた訳でもないがおそらくそうだったのだろうと思っていることを書いてみる。自分の祖先が竹釜部落であり南竹姓であったためでもあるが、終戦前まではその名前の人がその地区に多く住んでいた。本浦地区は北の方から尻釜(しかま)、竹釜(たけがま)、新潟(しんがた)、小屋(潟口)、勘場とあり、夷ヶ丘の東に土佐、寺下、浜崎という部落があった。また、遠く砂浜を隔てた南に小瀬(こぜ)があった。砂浜は埋め立てられ、現在の浦和町、新生町になっている。昔は部落のことを向き(むき)と言っていた。たとえば、竹釜向(たっがまむっ)、小屋向き(こやむっ)と言う。
 明治11年に一般平民に苗字が許された。その前までは屋号(渾名)を付けて呼ばれていた。私の父(南竹 善吉)も「チョカ善吉」と言っていた。屋号の由来については良くわからない。苗字を付けることを許されたとき、住んでいる土地にちなんだ苗字を付けたと思われる。
尻釜地区に住んでいた人は尻釜と付けた。竹釜地区に住んでいた人達は、その位置によってよって同じ苗字を付けたのが多い。この地区が本浦で一番住人の数が多かった。南側に住んでいた人は南竹、上側に住んでいた人は上竹、中程に住んでいた人は竹中、中竹、竹元、下側に住んでいた人は竹下、北側には後竹という名もあり、大竹、若竹という名もあった。また、五反田川添いに人が西川、川崎と付けている。次に新潟地区、ここは割合人家が少なかったが、ここも南新、北新、上新とあった。
 小屋は昔、潟口という地名だったので、潟口、前潟、中潟、後潟、東潟、潟村があり、一番南側の勘場地区は夷ヶ丘の西側に位置していたので夷を付けた名が多い。勘場、上夷、中夷、下夷、前夷、後夷があり、夷ヶ丘の東側に土佐という地区があり、土佐、佐抜、帖佐という名があり、夷ヶ丘の北側に寺下、浜崎、中村筋という小字があり、この周辺では寺下、浜崎、中村という名が多かった。
 また、小瀬地区には小瀬姓が多い。この他に屋号や名前から由来したと思われる長家、大高、岡野などいろいろな苗字が付けられてきた。今までの苗字の人に貴方の先祖は何々地区ですねと聞くと8割くらいは先祖の地区を当てることができる。




本浦地区の屋号

 明治の初めの頃、平民に名字が許されるまで、平民は皆、屋号やあだ名で呼び合っていた。本浦地区でも最近まで、「どこそこの誰よ」という場合、屋号を使って説明することが多い。同じ名字でも屋号が違う場合は系統(親戚)が違う。また。名字が違う場合でも屋号が同じであれば同じ系統(親戚)である場合が多い。
 あだ名は先祖の名前を付けたものも多いようだ。ちなみに我が家(南竹)は「チョカ屋」である。
 屋号を部落名で分類してみる。

岳釜(たけがま)

  安 藤  アメ屋
  今 尾  デンコ屋
  上 新  太之助
  上 竹  七郎屋
  植 田  マンヅ屋
  植 新  ゴベ屋
  後 夷  ヨカン下(シタ)店
  内 村  イッチャ屋
  大 竹  ゼンパ屋
  大 満  キツネ屋
  川 口  ハンヅ屋
  小 玉  オゴ屋
  小 松  コマツ勘
  尻 釜  スヤドン
  竹 中  サツボ屋
  岳 釜  徳ド方
  寺 田  ギン屋
  中 尾  十五(ジュウゴ)ド方
  西 川  仲兵ヱ屋
  浜 崎  ドンジ屋
  浜 田  ソヤマ屋
  前 村  スエド方
  松 元  ブジ屋
  南 竹  カッチョン屋
  南 竹  サンコ屋
  南 竹  伝助屋
  南 竹  チョカ屋
  北 山
  下 村
  竹 下
  竹 中
  中 嶋
  中 竹
  船 蔵
 
新潟(しんがた)

  荒 田  タツカ屋
  上 新  オヤシデ屋
  上 新  ジンコ屋
  上 新  ホカブイ屋
  上 新  梅ド方
  上 野  伝兵ヱ屋
  江 藤  オコシ屋
  江 藤  ヨタ風呂屋
  川 崎  オゴ屋
  坂 口  ウサンゴロ屋
  坂 口  オツンナ屋
  竹 本  ヤッ兵ヱ屋
  寺 田  オハ屋
  中 尾  サンパン屋
  中 村  ゴチョ屋
  中 潟  フナヨン屋
  中 潟  ゴゼ屋
  西 村  ガネ(ドン)屋
  林    タンコ屋
  浜 田  ソエモン屋
  福 田  チヨガメ屋
  福 田  孫四郎屋
  馬 越  馬ン子屋
  南 新  辰兵ヱ屋
  南 新  鍬ド方
  南 新  弥兵ヱ屋
  南 新  カワ屋
  南 竹  ゴソ屋
  前 潟  ユイカ屋


 
小屋(こや)

  安 藤  アンマ屋
  今 尾  ゲンタ屋
  今 村  カドヤマ
  上 夷  ハヤタ屋
  上 夷  長者権屋
  上 新  五兵ヱ屋
  上 新  バン内屋
  上 野  馬ン子屋
  後 潟  ゴケ屋
  内 村  ボチャ屋
  川 崎  タレクチ屋
  川 野  イッカン屋
  勘 場  バッタ屋
  潟 野  ギン屋
  潟 村  ハンヅ屋
  潟 村  タゴ屋
  寺 田  ゲンタ屋
  平 石  ハシマデン
  浜 崎  チンダイ屋
  東 潟  ガラン屋
  東 潟  タッモン屋
  東 潟  サツガン屋
  前 潟  ソテツドン
  前 潟  アメ屋
  前 潟  カヘイ屋
  安 田  新聞屋
  児 玉
  間 瀬
  吉 峯
 
勘場(かんば))

  今 井  ゲンゴ屋
  後 夷  セイジロウ屋
  後 夷  アサガオ屋
  後 夷  コブ屋
  上 夷  センタン屋
  上 夷  ソッタ屋
  勘 場  オミセン屋
  勘 場  ミツゴ屋
  勘 場  黒兵ヱ屋
  坂 田  マスベイ屋
  真 田  シンタ屋
  下 夷  ノモト屋
  薗 田  十郎屋
  竹 浜  ヅモ屋
  谷 川  イッペ屋
  中 夷  伝五郎屋
  中 村  太之助屋
  波 村  トケ屋
  西     シンゴ屋
  羽根田  ハガマ屋
  船 蔵  クァイ金屋
  前 潟  セザ屋
  松 元  シンゼ屋
  山 田  ソイノカラ屋
  岡 田  
  神 崎
  黒 木
  前 夷
土佐(とさ))

  粟 田  ヨンタ屋
  今 尾  ギンガメ屋
  大 里  ジュキッ屋
  岡 野  ノソ屋
  川 口  ホケ屋
  川 口  ゲンゼ屋
  勘 場  ツボ屋
  北 浜  蔵屋
  瀬 戸  半七屋
  竹 中  タバコ屋
  土 佐  忠兵ヱ屋
  中 村  権十屋
  西    イッタン屋
  西 村  ヅヨン屋
  野 下  仁王ド方
  浜 川  ユメド方
  浜 田  グワンタ屋
  早 崎  ヨマ屋
  早 崎  チンチョ屋
  船 蔵  ゲンゴ屋
  安藤
  尾高
  駒寿
  津田
  鶴田
小瀬(こぜ)

  江 藤  トッゾ屋
  大 里  オヤシデ屋
  小 瀬  殿様ド方
  小 瀬  伝五郎屋 
  中 村  権十屋
  西 田  キッチョン屋
  西 田  ボッケ屋
  浜 崎  ゴヘイ屋
  浜 崎  ホッポ屋
  林    ウカゼ屋
  南 竹  サンコ屋













 


「しんぐゎさんち」と講摩

 本浦地区の浄土真宗門徒は4月3日にお釈迦祭りをした。それを「しんぐゎさんち」といった。その日は奉公に出ている娘たちも帰郷し、盛大なものだった。4月8日が釈迦の誕生日で、他の地区では釈迦祭りをするのに何故、本浦地区は4月3日にしたのか若い頃から疑問に思っていた。本浦地区には5つの講摩があった。
 この講摩というのは薩摩藩によって浄土真宗の信仰が禁止されて、人々が「隠れ念仏」と呼ばれる門徒になって結成した講のことである。門徒への弾圧も激しく大勢集まって説教を聴くこともできず、本浦では5つの講をつくり、個人の家の床下や地下室で仏を拝み、講話を聞いた。その講摩が1年に1回花見と称して一同に会したのが「しんぐゎさんち」である。
 釈迦の誕生を祝う会であるが、その日にすれば島津に睨まれるので、日を変えて行ったものと思う。本浦に分散している5つの講摩は「スヤ講摩(後夷)」、「伝造講摩(今尾)」、「荒田講摩(勘場)」、「新ゼ講摩(松元)」、「お東講摩(浜崎)」という。「しんぐゎさんち」は、一つの講摩に老若男女、50名位が講摩名を書いた旗を先頭に三味線太鼓、手弁当を持って、まず寺詣りして長崎鼻へ繰り出す。
 長崎鼻では講摩ごとに輪になって会が始まる。それぞれ輪をつくって、背中合わせになっているが、唄や踊りが出ると次第に輪が崩れ大宴会となった。




御幣(しべ)立て

 毎週土曜日になると集い(よい)があり、その週に皆が会の規則を守ったかどうかを訊ねられ、制裁を受けることがある。小遣い銭は会で決まった額を超えていないか。友達と仲良くしているか、喧嘩はしなかったか等々、頭(かしら、6年生)より、一人一人聞かれると、子供は正直だから兄弟喧嘩をしたとか、1銭多く使ったとか、自分のことばかり言えばいいのに、誰々は誰と喧嘩していたのを見たと報告する。すると頭はどのような理由で喧嘩をしたか、何故、親に口答えをしたのか、何故、金を使わねばならなかったのかを聞く。頭はその聴取内容によって、罰を与えるかを吟味する。1回までの規則違反は注意処分、2,3回と違反が重なれば同僚や年輩をその場で依頼して詫びを入れさせる。その詫びの文句が決まっていた。
「頭(かした)んし、あたや英吉どんに代わって、断(ことわ)よ、言(ゆ)ごと頼まれもした。聞いてくいやい。こた、構(かね)もはんどかい?」すると頭が、
「ものの言うようじゃ、聞っも聞かんもあい。いけなこっちゃ、言(ゆ)うてみやい。」といわれたら、
「今度、英吉どんが言(ゆ)たい、したい、せらった事(こ)っが、ふさまし、悪(わ)いかった。ごあいもんどん、英吉どんも今から、こげな事(こ)た、しもせらいめで、頭(かした)んしの、立っちょい腹をなげて、堪(こら)えてくれやいこた、構(かね)もはんどかい?」すると頭は、話し合って今度は全員に向かって、
「今、英吉どんに代わって佐市どんが断(ことわ)よ、言(ゆ)わったが、下(した)ん衆(し)はいけんや?」という。全員は声をそろえて、「したんごわす」と一言、そこで、頭は断りを聞くか聞かぬかを話し合う。
何遍も違反した者は親を呼んで断りを言わせることもあった。軽い罰は小遣い銭の減額、喧嘩等でいつも注意を受ける者に対しては御幣(しべ)立てという制裁を受けることがあった。
 西村某(5年)という喧嘩大将がいて、他の部落から苦情がちょくちょくあり、先生からも注意を受けていた。この男に御幣(しべ)立ての制裁を与えることになった。そのことを伝えられても本人は平気だった。 当時のえびすが丘は墓場で、新墓から火の玉が飛んだり、幽霊が墓の中でひそひそ話をしているのが聞こえるという薄気味悪い場所だったので、夜はあまり人も通らない。墓場の東側に八松(三本松)という老松があり、枯れかけていたが昼間は小鯛釣りの漁師の良い目標になるので切り倒されなかった。御幣(しべ)立てとはその松の根元に薪を立ててくることだった。
 その日は12月11日の寒い夜だった。三日月の月明かりが墓場を照らし、墓影が揺らいでいるように見える夜であるが、本人は2本の薪を持って、悠々と出かけて行った。西村某が出かけた後、古頭、新頭たちは、白い布をつけて幽霊の格好をして、本人が帰ってくるところを驚かすために、途中の暗闇で待ち受けていた。そのため、帰る道は提示してある。ところが1時間経っても2時間経っても帰ってこないので、頭たちが待ち受けていることを知っていて、道を変えて帰ったのだろうと、西村某の家に行ってみたが帰っていない。頭や上級生たちが他の道を探したが見あたらず、深夜になって、今度は親たちが心配しだして、八松のところまで行ってみたら、松の根方に気を失って倒れているのを見つけ大騒ぎとなった。
 その事情は、寒かったので絣の着物に羽織を着ていたが、薪を打ち込むとき、羽織の裾の上から打ち込んだことのようだ。立ち上がろうとしたら、羽織を何かが引っ張ったのではと思いながら、また立ち上がろうとしたら、また引っ張ったので、気丈夫な男と思えてもまだ子供、そのまま気を失ったらしい。それ以後、御幣(しべ)立ての制裁は禁止されたようだ。




肝付どんの枇杷

 現在の北浜町の浦元水産の周辺に肝付どん(医院)の枇杷園があり、時期になると木の枝が折れるくらいに、沢山の大きな枇杷がなっていた。そこには番人がいて、なかなか枇杷園には近づけなかったが、行きずりに知らん振りをして1つ、2つもぎ取って食べたが、とても美味しくその味にとりつかれていた。
 ある晩のこと、私と親友で映画を観て、いつもの集合場所(北浜町)の家に行くと、他の友達連中は袋(米袋)を2つ持って、出て行ったとのこと、枇杷盗みに行ったことことがわかった。我々も参加するつもりで番人に気づかれないように南側から入って行くと、畑の中央で、こそこそ動く人の気配がする。近づいて行くと西の方へすばやく移動した。我々も慌てた。てっきり番人が北側から入ってきたと思い、急いで西の方へ移動し畑を出る。枇杷園の西側は2メートル位の高さの石垣になり、その向こうは川縁になっている。彼等は石垣を飛び降りて、10メートル余りを川縁沿いに南へ逃げている。我々も恐くなって必死に走った。2人が枇杷の袋を担っていたが、一人はそれを投げ捨てて走り出した。
 100メートルほど走ったが、我々の後ろからは誰も追って来ないことに気がついた。彼等が自分達を番人と勘違いしているらしく、オーイ、オーイと声をかけると、益々、足を速めた。新潟の下の砂浜を通り、小屋(本浜町)の近くに来た時、自分達に気づいて砂浜の中に倒れるようにして座り、追いついた。彼等は一斉に一言「馬鹿が!」と言って、ふうふう息を切らしながら大笑い。1袋、落としてきた分も取りに行き、輪になって食べたが、また一段と美味しかった気がする。



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ページの更新年月日:2015年4月1日