串木野今昔(昭和・平成)



串木野今昔(昭和・平成)は戦後の昭和の時代、筆者が育った串木野の本浦地区を中心とした行事、
少年時代の思い出を書いたものです。                          南竹 力

目 次

  1. 一本釣り帆船
  2. 祇園祭(おぎおんさあ)
  3. 五反田川
  4. 浜ん馬場
  5. ロータリー
  6. 串木野駅
  7. 中央公民館
  8. 漁師の編み物
  9. 漁師の気象予報
  10. 親子ラジオと漁労情報
  11. 恵比寿神社の六月灯
  12. 水揚場(串木野漁港)
  13. 本浦公民館
  14. ルース台風
  15. 市(いち)の賑わい
  16. 小学校の運動会
  17. 銭湯(風呂屋)
  18. ガルどんのダゴ投げ
  19. 肥後守
  20. 陣取り遊び

※ 写真掲載資料:
串木野市漁業協同組合創立100周年記念誌
串木野漁業史  串木野市漁業協同組合


一本釣り帆船


 昭和38年頃まで、串木野の五反田川の河口の砂州には、帆船が帆柱を列べていた。夜明け前に出帆した船は午後になると、帆に風をはらませて疾走して帰って来る。河口の入口で、すーと帆桁を下げて、その勢いで舵を操り、岸に正確に近づき、すばやくもやいをとっていた。船乗りは、ねじりはちまき、夏は上着に褌一つ、冬はどんざを着込んで腰巻き姿、赤銅色の顔が漁師としての誇りさえ感じさせる。船乗りの女房は、船が見える前から岸に立ち、桶を持って船が着岸すると、魚を選り分け、天秤棒で担いで近くの市場に運んで行く。天気の良い日の港(河口)での風景であった。




祇園祭(おぎおんさあ)


 「ア〜ナンチョウカイモ ア〜ソーレ(ア〜ソーラ)」太鼓の囃しに、2階建ての祇園山車の後をついていった幼い頃、たくさんの人で長いロープの付いた山車を引っ張り、その前には山車を先導する人、長い竹竿を持ち、山車が電線に引っかからないように、垂れ下がった電線を持ち上げる人。大きな店の前に来ると、山車の下から収納してある三畳程度の床を引き出し、床の下に脚を立てて、舞台となる。観客も大勢集まり、踊りの披露が行われる。踊りの艶やかさと華やかさが今でも脳裏に焼き付いている。踊りの演が終わると、店の主人よりの花(祝儀)を披露する。そして山車はまた駆け出して行く。串木野の街には「八坂山」など2、3台の山車がいたように思う。



[市来湊祇園祭]




五反田川


 五反田川河口には、夕方になると漁を終えた漁師達は川岸で日没の間、お互いに釣果を語らい、明日の天気を気にしながら、西の空を眺めている。
 五反田川は鰻や蟹が沢山生息していて、筆者もよく釣りに出かけた。釣り竿とバケツを持って、河口で川原の手頃な石を持ち上げ、餌の磯ゴカイ(ミミズ)を取る。釣った鰻は夕げの食卓に上がった。たまに大きな山太郎蟹(やまたろがね)が掛かってくる。河口の上流には石ころを積み上げたり、木の枝(柴)を沈めて、そこに集まる鰻や蟹を捕る仕掛けがあちこちに設けてあった。
 河口の上流には大きな中州があり、野球をしたり、相撲をしたり、子供達の遊び場であった。中州の端にはシオマネキ(たうっがね)が沢山いて、追っかけるとあわてて穴の巣に入り込む。たまに自分の巣を間違えて飛び出してくるのもいる。それを追っかけるのも楽しかった。満潮になる前に中州を出ないと膝上まで海水に濡れることになる。
 対岸の野元の深田神社でガウンガウン祭り(豊年祭り)が行われるときは、部落の仲間で一緒に出かけた。神社までは本浦からは平江橋と野元橋を大きく迂回して行かねばならず、遠かったので潮合いを見計らって、中州を通って、五反田川を横切った。ズボンをできるだけ捲り上げ、靴は手に持って川を横切るのであるが先輩格が先に川に入り足場を探る。その後、身長順に渡り始める。たまに深いところがあり、ずぶぬれになることがある。季節柄、寒かったことを記憶している。




五反田川河口の中州(H27.10.23)



 

野元海岸



「竹製がねてご(かに手篭)」
堤 信行     -----いちき串木野市生福出身 -----

 小学校時代から使った50数年前の竹製がねてご。昔の農村地帯には農具の入れ物はプラスチック製品は無く、ほとんど竹製で「バラ屋」(バラはリヤカーに積む長辺1m位の篭)で作って貰っていた。
 30年くらい前に当時まだ存在したバラ屋さんに修理して貰ったが、現在ボロボロ(写真右隅の穴)でこのままでは使えない。
 小さい頃は夕方、ガネテゴの中につぶしたタニシや米ぬかを田んぼの泥で混ぜたエサをシュロ皮で包んだ。
 農村、子供にはなかなか手に入らないが、効果ある魚のアラがあればアラを入れ、川の流れが緩やかで大きな岩が多いところ、カニがいそうな場所に浅いところはパンツ一枚になり、 深いところは潜って、入口を下流に向けて流されないように手ごろな石を乗せセットした。
 翌朝は岸につないだ「まぐれんよま」(水に強いマグロ延縄)を引いて篭を上げる、引き寄せる時の感覚で「今日は沢山入ってる」などワクワクするひと時だった。
 蓋を開けると、カニがブクブクと泡を吹いていたのを思い出す。




浜ん馬場

 「どけ行っとな」「馬場(ば)べ買物(けもん)に」、午後3時頃になると買物篭を持った主婦が浜ん馬場(はまんばば)に出かける。冷蔵庫などの無い頃、生鮮食料品を保存できないので、毎日使うだけの食材は買いに行く。また、主婦の社交場でもあり、いろんな情報の交換をする。
 近郷近在の農家から朝採った農産物をリヤカーに積み込んで、午後2時頃には浜ん馬場の通路の真ん中に列べられる。通路の真ん中なので、農産物はそれぞれどちら側かに向かってリヤカーを列べ、売る場所もそれぞれ暗黙で決められていた。筆者の叔母も生福(上名)の坂下から、毎日リヤカーを引いて来ていた。計り(ちきい)の上の野菜は泥も付いたままの新鮮なものだ。売り買いの駆け引きは目盛を見ながら、値引き交渉をする。午後5時過ぎにはそれぞれ店終いをして静かな浜ん馬場になる。






ロータリー

 昭和40年代の頃までロータリーを中心に警察署、消防署、電報電話局、郵便局、商工会館、信用金庫が回りを囲んでいた。戦後の復興事業による都市計画が実施され、県内でもめずらしいロータリーを中心にした放射状の道路がつくられたようだ。駅前の国道にもロータリーがあったように記憶している。
 ロータリーは回りを少し石を積んで、中には蘇鉄が生い茂る小さい森になっていた。ロータリーから春日町、大原、元町・浜ん馬場、串木野漁港、昭和通り(氏神んどんの森)へと道路が放射状につながる。木市、廿日市や夏祭りには、元町・浜ん馬場線は通行止めになり、1日中、賑わいを見せていた。
昭和通方面へ行くと「氏神ん(うっがんどん)の森」があり、道路の車線をまたいで堂々とした大木が昔の面影を偲ばせる。

 




串木野駅

 昭和30年代、就職列車を見送ったプラットホーム、プラットホームに続く地下道、近郊の村・町へ魚の行商でてんびん棒を担いだおばさん達でにぎわった待合い室、チッキで駅留め手荷物を受け付ける窓口、駅の売店(キヨスク)があり、老若男女で賑わっていた。
 プラットホームの線路を挟んで東側はシラスの崖(台地)になっていた。防空壕の跡があり、学校帰りに探検した思い出がある。その後、造成され竹岸ハム(現プリマハム)が串木野に進出した。駅前は大きな広場があり、老舗「昭和旅館」の威風堂々とした玄関が駅前の象徴のように思い出される
駅の南側に駅員宿舎、そして踏切。筆者の通学路は大原の陸橋だったので、小中学校の登下校に汽車が通ると陸橋の真ん中で眺めるのが楽しみだった。





中央公民館

 串木野で文化公演などあるときは、串木野市中央公民館が唯一の文化施設であった。映画館は元町に東映(昔は喜楽館と呼ばれていた)、春日町に銀界(後に移転)があった。
 いろんな公演会や催しは地区の公民館も利用されていた。本浦公民館や島平公民館が100人程度は十分収容できる大きさだった。中央公民館は大原の交差点より現在の市役所前を通る道路と、元町から照島に至る道路の交差点にあり、跡地は現在は金物センターになっている。大原方面に向かっていくと流川(ながれご)に沿って、低いくぼ地が続いた。向かい側はブドウ園や畑地(麦畑)で、繁華街の中心より少し離れていたが、小学校の学芸会やいろんな公演行事が行われた。また、串木野市の合唱コンクールなどは串木野高校の講堂も使用された。
 中央公民館は木造の2階建て、舞台装置と楽屋裏備えた舞台を持ったしゃれた造りで、2階見物席があり、文化の殿堂にふさわしい建物であった。既に老朽化が進み、2階席などへの入場は禁止されたように思う。その後、市民会館、市民文化センターがつくられ、中央公民館もその役目を終えて解体された。



昭和32年頃の串木野小学校学芸会



漁師の編み物

 数ヶ月ぶりに近海漁からの船が母港へ帰ってくる。子供たちは帰港時刻に合わせて、父や兄の帰りを待っている。接岸すると赤銅色の懐かしい顔が目に浮かぶ。岸壁では各家に配る魚を切り分け、緑色のパーチ(耐水紙)に包む。漁師の土産は切り身や干しイカや塩辛などの土産と、そして汗の匂いの染みついた洗濯物だった。
 その中に子供たちへの手編みのセーターがあった。毛糸の玉を出港時に持っていった訳ではない。使い古しの綿ロープをほぐし、それを使って編み糸にする。使い古しの綿ロープを解したものは程良く毛羽立っていて、編み糸になる。漁師はもともと漁具の手入れで手先は器用である。漁労の合間に二本の手作り編み棒を持ち、防寒用のいろんな編み物を作っていた。
 帰りを待ちわびる子供へセーターをつくるとき、前もって寸法を測ったわけではない。身体で感じている我が子の大きさを帰港したときの成長も考えながらつくるのである。筆者も父が作ったフィッシャーマンズセータを兄から譲り受け、着込んで学校へ行ったものだ。どんなに乱暴にあつかっても破れることの無い、少し重いこのセーターを父が洋上で編んでいる姿を思い浮かべる。




漁師の気象予報

 筆者の家は、南側に漁港、西側に防波堤があるところに位置していた。小学校に通う頃、父は西の空やときには海鳴りの音を聞きながら、今日は雨が降るから傘を持っていけと言われ、本当に予想通りだったことを覚えている。ラジオの気象予報よりも正確であった。
 漁師は、長年の操業経験や先代から伝承により、さまざまな気象を熟知していた。朝焼け、夕焼け、雲の形、気温、湿度、風の強さ、潮風の匂い、海岸の地形による海鳴りなどを六感を使って判断をしていた。 漁師は、午前3時頃から床より起き出て、何時も決まった場所(川口)に集まり、海鳴りを聞いたり、古老の予報を聞いてから出漁する。漁を終えて、船の舫をとると、朝と同じ場所に集まり、釣果や明日の天気をお互いに予報する。




親子ラジオと漁労情報

 昭和40年代まで、どこの家庭も親子ラジオが設置されていた。各地区のラジオ受信所で受信、増幅して、各家庭まで配線、音量調整付きスピーカボックスが取り付けられる。(受信所からの配線は一線を空中配線し、一方の線はアース接地されていた。)ラジオ番組は受信所が選択して送っていた。
 小さい頃、「赤銅鈴之助」「まぼろし探偵」など聴いた覚えがある。母は「君の名は」に涙を流していた。本浦地区では毎日、午後6時か7時頃だったと思うが、親子ラジオに漁労情報が流される。串木野漁業無線局に漁労中の各船舶から打電された電報を毎日受け取り、受信所から放送するのである。この時間だけは漁労に従事している家庭は一斉にスピーカに聞き入る。
 「第六・・・丸、北緯・・・分、東経・・分、・・回目操業中」の後に「昨夜、皆無」「天気良好なれど漁なし」「黒〔鮪)・・本」「カシキ(炊ぎ・かしぎ)も元気」等と続く。漁船の肉親の安否と漁獲を確かめ、他船の漁獲情報をメモをとる。この電文は、各船とも漁獲を正確に送らない、この語句を使ったら、どの程度の漁獲量だと各船で決めていたようである。数十トンのマグロ魚船からどんな時化の中でも毎日、若い通信士は故郷へ電鍵(キー)を叩いた。





恵比寿神社の六月灯(ろっがっど)

 学校から帰ってくると棚の奥にしまってあった提灯を取り出し、今年はどんな絵を描いてもらえるか、心待ちにしながら、タワシで水洗いして、半紙をきれいに落し乾かす。父に提灯に奉納、奉寄進と名前、武者絵や漫画の主人公の絵を書いてもらい、それを糊で貼り付ける。兄弟それぞれ絵柄は違っていた。
 夕食後、浴衣に着替え、自慢の提灯の絵を早く神社に飾りたくて、明るいうちから出かけていたことを憶えている。筆者の家が恵比寿神社の近くだったので、薄暗くなってくるころ、ローソクを灯しに行き、家族で恵比寿神社の参拝をする。それぞれの家族は出漁している夫や息子の健康と航海の安全、大漁をローソクの光の中で祈っている。
 子供たちは近所の友達と提灯を眺めながら誰の武者絵はかっこいいとか、どの漫画の主人公だったとか、ミニ観賞会が始まる。女の子の提灯は「なかよし」や「りぼん」などの漫画の絵が多かった。だんだん暗くなると、夜店の明かりが華やかになる。もらった少しの小遣いをもって夜店を回って歩くのも楽しみだった。
 六月灯から帰ってくると、縁先の物干に提灯をつけ、井戸水で冷やした西瓜を家族で割って食べるのが毎年の恒例だったように思う。






ルース台風


 ルース台風は、昭和26年10月14日19時頃、鹿児島県串木野市付近に上陸した。 串木野では海岸一帯を高潮が襲い、甚大な被害を出した。
 筆者は当時4歳、西浜町(本浦西)に住んでいた。父が夕方からの高潮に気づき、父は私を背負い、母は弟を背負って、兄と姉を小脇に抱え、高潮で膝上まで増水した道路を新潟(しんがた/北浜町)へと避難した。父母の話で,父が風雨が収まってから、海水をかき分けながら家にたどり着いたときは家は跡形も無くなっていたらしい。
 数日後、祖父に連れられて家に帰ったときは油まみれの壊れた家の材木を集めて、大工だった叔父たちが建て直していたことを思い出す。
鮮烈な記憶のなかにある情景は、一部は後年に聞かされて、そのように感じているのかもしれない。台風が来る前までは串木野漁港は鰯の豊漁で活気があり、父も小型船で漁に従事していた。
 台風によって持ち船は大破し、家は壊れ、全財産を失った。それからの父母の苦労は計り知れないものだっただろう。

<ルース台風>
昭和26年10月9日にグアム島の西海上で発生し、発達しながら西北西に進み、12日午後には進路を北から北北東に変えた。13日夜に宮古島と沖縄本島の間を通って東シナ海に入り、14日19時頃鹿児島県串木野市付近に上陸した。
 台風は速い速度で九州を縦断、山口県・島根県を経て日本海に出て、北陸・東北地方を通って15日夕方には三陸沖に進んだ。





水揚場

 願船寺から漁港へ坂道を下ると魚の匂いがするという。いつも生活している者にはあまり感じない。
昭和35年頃、水揚場のすぐ近くで育った筆者にとって水揚場は自分の遊び場だった。周辺にはマグロ・カジキ用の大型トロ箱やアジ・サバを入れる小さなトロ箱が山高く積んである。箱を積み崩して近所の悪戯坊(われこっぼ)と基地をつくり、箱屋の女将によく怒られた。
 水揚場はいろんな行事に使われ、港祭りの舞台や映画上映、のど自慢などが行われたことを思い出す。木造の東西に長い切り妻屋根を二つ組み合わせた構造の水揚場はルース台風の高潮にも耐え、長い間、港の出入港を見送ってきた。
39トンクラスのマグロ船が数ヶ月の航海を終え、水揚場にはマグロやカジキ(マゲ)が並んでいる。フカの強烈な内臓の匂いが鼻を突く。カジキは嘴を切り、マグロやカジキは大きなトロ箱に氷を入れて仲買のトラックで市場へと運んで行く。カジキの嘴は漁師がロープの手入れをするスパイキとしてよく使われていた。
 甑島から大敷(網)の船が入ると母は魚の選り分けの仕事をしていた。船倉から選別台に取り上げられた魚を流れ作業で選別してゆき、次々と箱に詰められて氷を入れて運ばれてゆく。仕事は深夜におよび選別台を照らす投光器の明るさとエンジンの響きが寝床まで届いた。



カジキの水揚げ(昭和32年)

マグロの水揚げ(昭和42年頃)


本浦公民館


 西浜町と港町の間、浜町郵便局の隣りに本浦地区を代表する公民館があった。公民館は西側と北側に入口があり、100〜150人程度は収容できた。
南側に舞台があり、地区の祭り行事や映画、旅回り劇団の公演などが行われていたことを思い出す。地区検診や選挙などの投票所、地区全体の会合などに使われていた。
 本浦青年団の集会所にもなっており、防火、防災など活動やいろんな行事を支えていた。年1回の漁願相撲大会のときは、建物南側に安置されていた御輿を引き出して、恵比寿神社よりご神体を神輿(みこし)に遷す儀式を行って相撲会場へ二才衆が担いで行った。各部落の子供会などは本浦公民館と漁業協同組合の講堂を使って行われたように思う。公民館は本浦での文化施設として使われていたが、老朽化が進み、その後、串木野漁協漁民研修センターとして新しく建て替えられた。


本浦公民館のサイレン

 夜の静けさの中に、突然、消防署のサイレンの音が聞こえる。少し経つと本浦公民館のサイレンの大きな音が聞こえ、目が覚め急に恐怖心に襲われる。父が家の外に飛び出し、周囲の空を見に行く。サイレンの音の間隔が風に流れ、強弱が怖さを駆り立て、布団の中で震えて聞いている。しばらくして父が帰ってきて、家の近くの火事ではないので心配しないで寝なさいと言う。落ち着くまで、しばらくは寝つかれない。
 早朝、眠い目をこすりながら起きると父に夕べの火事の状況を聞く。本浦地区は木造の家屋が隣接しているため火事があれば延焼を免れない。そのため火の用心は家庭で徹底して行われていた。本浦地区での大きな火事は起こっていない。これは、部落公民館や本浦青年団、本浦消防分団の防火・防災の活動があり、毎夜の見回りなどの功績に寄るところが大きい。今でも当時のサイレンの音が耳に残っている。



市(いち)の賑わい

 串木野では、一年に2,3回、市が行われていたように思う。廿日市(12月)、初市、人形市、木市と呼ばれていた。元町から栄町にかけて、現在のサノサアーケードの交差点を中心に東西南北に歩行者天国となった。市のカラフルな出店の並びや賑やかさは、子供の頃はわくわくする行事の一つだった。
 この日は親から小遣いを10円程度もらって、姉弟と市の雑踏の中に駆け込んでゆく。お金はポケットに入れない。いつもより多い小遣いはしっかり手に持って出かける。まず、市の端から端まで出店の売り物を眺めたり、大道芸人風の売り子の話に耳を傾けたり、ゆっくり買物の品定めをする。買うときは多くて5円、それから3円、2円程度のものを買う。手のひらの10円は、しっとりと汗ばんでいるが、自分にとっては、貴重な大金であり、お金の使い方を勉強する機会でもあった。いろんなものを買ってから、いつも後で買わなきゃ良かったと後悔していたことを思い出す。貧しい時代ではあったが、楽しかった情景が自分の脳裏に焼き付いている。


市(いち)の余話

 小学校のとき、市の出店を眺めて回っているときに、ある出店の主人より、店番か使いを頼まれたことがあった。どのようなことを頼まれたか今は記憶にない。そのお礼といって店の品のおもちゃをもらった。もちろん、自分の小遣いで買えるような品ではない。
 我が家に帰ってから、私がおもちゃを持っていることを見た母は、少し怒り気味でそれはどうしたかと訊ねるので、手伝いをしたのでもらったというと、その店に連れて行けと母が言う。私は一緒行こうというと、母はもう良いと言ってその後は訊ねなかった。自分の子供を信用しながらも小遣いで買えないものを持って帰ったので、確かめたかったのだろう。貧しい頃の凛とした母の姿を思い浮かべる。



小学校の運動会

 運動会は10月末から11月3日(文化の日)の間に行われていた。朝晩が冷たく感じられる時期であった。運動会までの一週間位は行進の練習やマスゲーム、応援の練習などがあったように思う。私は背が低いため、行進のときは一番後ろであり、前の人と歩幅を合わすのが大変だった。
 父母は運動会前日は、つけ揚げや昆布巻きをつくるのに大わらわである。学校から帰るとお重に詰まれた料理を風呂敷に包んで、親類や近所に持って回る。お礼にみかんや柿などをもらって帰る。
 当日は朝早く起こされて朝食後、運動着姿で冷たい外へ飛び出す。家を出るとき茣蓙を持たされ、運動場の陸上トラックの見えるところに家族の観覧場所を確保しておく。観覧場所は各部落ごとに決められていた。
 徒競走ではいつも緊張し、足がすくみ、いつも遅かった。1番、2番はノートが賞品で、参加賞は鉛筆1本だったように思う。一番楽しかったのは昼休みの時間で、親もお重を抱えて待っている。いつも麦飯だが、運動会は白いおにぎり、一番好きだったのはシイラの干し魚の角煮だった。午後からはクラス対抗リレーやマスゲームがあり、最大のイベントの部落対抗リレーがプログラムの最後であった。
 部落で選ばれた各年の代表は、それぞれの部落の色の鉢巻きをする。照島小学校では、運動会が部落ごとに分かれていたと聞く。串木野小学校では部落対抗リレー以外は紅白対抗であった。部落対抗リレーが始まると部落の父兄はトラックにはみ出さんばかりに大きな声援を送る。私の部落は本浦西(西浜町)でよく優勝していた。ただ、足の遅い私は意気揚々と帰って行く部落代表選手をうらやましく思いながら帰ったことが懐かしく感じられる。






串木野小学校の運動場の銀杏と東側に栴檀(せんだん)の木が昔の面影を残している。



銭湯(風呂屋)

 本浦地区には4軒の銭湯(風呂屋)があり、小瀬湯は小瀬墓地の南側に位置し、皮膚病などに効能がある湯だった。今でも元湯として営業している。浦和町の銭湯は御倉山(おくらんやま)と鉄工所の間、漁業無線局の下にあった。港町の港風呂(みなとぶろ)は海浜倶楽部(旅館)の北側、理髪店近くに位置し、海岸から煉瓦作りの高い煙突が見えていた。時々、港風呂に兄弟でお湯に浸かった思い出がある。
 入口の左側が男湯で番台、脱衣室、浴槽は2つあり熱い湯とぬるい湯があったように思う。当時は、家に風呂が無い家も多くあり、それぞれ近くの銭湯に通っていた。五右衛門風呂の代わりに庭にドラム缶で風呂をつくり戸板で目隠しにしていた家もあり、どちらも入るときに浮いている底板を沈めて入る。バランスを取って入らないと板が浮き上がってくる。浴槽の側面は熱いので身体が触れないように注意しなければならなかった。
 小屋(本浜町)には、浜ん馬場から坂口の坂を西に下ったところに銭湯(よたぶろ)があった。島平地区には、小瀬湯を含めて5軒あり、小瀬湯の近くに中湯(なかゆ)、長命湯(ちょんゆ)があり、無量寺近く(西島平町)に福田湯(ふっだんゆ)、田中中村(東島平町)に茶碗屋湯(ちゃわんやゆ)があったと聞いている。元町には鶴之湯(つるのゆ)、春日町の病院の斜め向かいの銭湯、曙町の駅下、バス停留所の裏に銭湯があった。それぞれ風呂の呼び名があり、「てつゆ」、「げんさんゆ」「たけのゆ」などと呼んでいた。




ガルどんのダゴ投げ

 梅雨の終わり、蒸し暑い頃、本浦地区では「ガルどんのダゴ投げ」の風習があった。ガルどんとは河童のことである。「ガルどん」とか「ガールどん」と言っていた。夏休みに入って、子供達が水難に遭わないように、河童に好物のダゴ(団子)を供えるのである。ダゴを投げるときの言い回しがあり、
「ガルどん、ガルどん、泳っとき、足しょ素引っきゃんな」、「ガルどん、ガルどん、泳っとき、ジゴを引っ抜っきゃんな」といって、だご(団子)を投げた。
 我が家は港の近くだったので、カンナの葉っぱに包み、紐でくくって、兄弟それぞれ、港の岸壁から海へ投げていた。
 今でも、市口(いちき串木野市北浜町から京町、汐見町を含む地域)では、毎年、旧暦の5月16日の水神様をまつる日に、五反田川河口でダゴ(団子)をワラツト(ワラ包み)にして、ガルどんにお供えしている。





肥後守

 「肥後守」といっても、今の若者は何のことか判らないだろう。折り畳みのナイフである。小学校の高学年以上はほとんどポケットに入れていた。学校では鉛筆を削り、お互いに削り方の上手下手を競ったものだ。山に行っては竹で豆鉄砲を作ったり、パチンコ用の木の股を切ったりして遊んだ。
 よく手の指を切ったが今のようなカットバンみたいなものはなく、よもぎの葉をもんで傷口に付けたり、新聞紙やちり紙をまいたりして血止めをするくらいだった。切れなくなるとその辺の手頃な石で研いだことを思い出す。このナイフは決して護身用などではなく道具としての必需品であった。
 小学校高学年になって初めて使う自分だけの工具であったのではないだろうか。また、ナイフの使い方によっては怪我をすることも身を持って体験した。










陣取り「カイグンユウギ」

 陣取い(陣取り)は、近所の遊び仲間と電柱(でんきんばした)を陣にして、遊んだ。
遊び場は道路であり、空き地だったりした。本浦地区には「カイグンユウギ」という陣取りの遊びがあった。 海軍に由来する遊びなのか定かではない。
 普通の陣取りはお互いを鬼ごっこ形式で追いかけ、敵の体をタッチする。ジャンケンをし、勝ったら陣地に連れて帰ることができる。あるいは、どちらが自陣を先に出たかの時間差で、優越が決まり、優先の者が敵の体にタッチしたら、陣地に連れて帰えることができるなどのルールがあった。
 「カイグンユウギ」では、10cm程度の長さの竹の先端にテープで赤、緑(青)、黄のテープを巻いたものを各5個程度、15cm程度の竹の先端から5cm幅にそれぞれ赤、緑(青)、黄を巻きつけたものをそれぞれ1個ずつ、それぞれ赤大将、緑(青)大将、黄大将と呼ばれていた。その他に、大将クラスの竹で高射砲というのもあった。
 ルールは、陣を出るときに必ず1個だけ竹を手に持ち、お互いに身体にタッチしたときに、竹を見せ合い、勝ち負けを決め、負けた方の竹を持ち帰る。あるいは、最初から竹の色が分かるようにして、相手を追っかけてタッチするルールもあり、ゲームの初めに申し合わせをしていたように思う。
以下のルールで、勝ち負けを決めていた。

 1.赤は緑(青)に勝つ、緑(青)は黄に勝つ、黄は赤にそれぞれ勝つ。
 2.大将同士は1.のルールに従う。大将は相手の同じ色に負ける。
   つまり、赤大将は赤に負ける。
 3.相手の陣にタッチできるのは赤だけで、タッチしたら、相手の
   赤、緑(青)、黄の3本を持って帰ることができる。
 4.普通の陣取りと同じで、自陣にタッチしている者が一番強い。

大将を取られると、不利になるので、余り持ち出さなかったが、大将と大将を守る色を持つものがペアになり、相手の陣を攻める。
たまに、2本の色の竹を隠し持っていて、見せるときに勝つ色を出すルール違反もいた。




「おはじきによる陣取り」


雨の日や仲間が集まらないときは「おはじき」で陣取りをしていた。このゲームは女の子達がよく遊んでいたが、
ときどき仲間入りしたことを思い出す。
筆者は水揚げ場の近くに家があり、雨の日は水揚げ場がよい遊び場だった。

1.1m四方の枠を書き、4隅の角に親指を置き、片手で親指を中心に回転させて、
  1/4の円の陣をつくる。そして、ジャンケンの順で、それぞれの陣地から
  スタートする。 2.自分の陣地から、「おはじき」を弾いて、マークしておき、3回弾いて、
  自分の陣に入れば、弾いた枠内は自分の陣地とする。その時、四角い枠と
  自分の陣地との空間が片手と広げてとどけば、自分の陣地とする。
  四角い枠だけでなく、相手の陣地と自分の陣地の空間も同じように片手を
  広げてとどけば、自分の陣地とする。






Page Top 串木野今昔(大正・昭和)

このホームページに関する感想、お問い合わせ、苦情は下記まで。
ページ作成者: 南竹 力
E-mail   :info(後に @nantenbo.com を付けてください。)

ページの更新年月日:2015年4月1日