平成17年5月1日より、伊集院町、東市来、日吉町、吹上町が合併し「日置市」なりました。 このページは筆者が住んでいる旧伊集院町を中心に風景や歴史について掲載しています。 南竹 力
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ザビエル碑 | 島津義弘公 | 妙円寺詣り | 平野二郎国臣歌碑 |
一宇治城とザビエル | 日新公いろは歌 | 妙円寺詣り | |
千秋山雪窓院 | |||
有馬新七誕生之地記念碑 | 伊集院の風景・四季 | 伊集院関連のリンク先 | |
伊集院の風景・四季 | 鹿児島の四季 |
鹿児島西部の吹上浜と錦江湾側の鹿児島市との中間に位置し、昔から交通の中心地でした。 日本に初めて上陸したフランシスコザビエルと薩摩藩主島津貴久との会見の地でもあります。 また、関ケ原の戦いで有名をはせた島津義弘公の菩提寺「妙円寺」があり、(廃仏毀釈で徳重神社として祭られている)、鹿児島三大行事の一つ”妙円寺詣り”で有名です。 |
ザビエル碑 | ||
1549年8月フランシスコザビエルは日本人ヤジロウとともに一宇治城内にて15代藩主島津貴久と会見し、 キリスト教の教えや世界の情勢についてを説きました。感銘を受けた貴久は鹿児島での布教を許可しました。 貴久は35歳、ザビエルは43歳でした。 記念碑は一宇治城跡、現在の城山公園内に建てられています。
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千秋山雪窓院と島津義久公剃髪石 | |
伊集院本通りの突当たり、城山トンネル入口の隅に静かに歴史を刻んでいます。 千秋山雪窓院は島津義久・義弘・歳久の母、雪窓院妙安大姉の菩提寺であり、剃髪石は秀吉軍が川内まで進軍した時に、 義久はこの座禅石で剃髪し、僧体となって秀吉に謁して降を請いました。
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島津義弘公 | |
島津17代当主島津義弘は、16歳になるまでの10年以上を一宇治城(城山)で過ごしました。義弘は伊集院に深い愛着を感じており、70歳を過ぎるころには妙円寺を自分の菩提寺としました。 義弘は島津貴久の次男として1535年亀丸城(伊作、現在の日置郡吹上町)に生まれ、長男は義久、弟に歳久、家久がいました。祖父は「島津家中興の祖」といわれる島津忠良(日新斎)で、現代にも通じる「日新公いろは歌」を残しています。 義弘は生涯、戦いの連続で九州制圧の戦い、豊臣秀吉の島津征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど幾多の存亡の危機に遭遇しました。また、民を愛し、文武両道の武将でもありました。 晩年は加治木で85年の生涯を終えています。
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妙円寺詣り | ||
旧暦9月14日の妙円寺詣りの行事は、関ケ原の合戦での義弘公の苦戦をしのんで、公の菩提寺(現徳重神社)に参拝するもので、県の三大行事の一つです。現在、妙円寺詣りの行事は10月第4日曜日に行なわれています。 妙円寺詣り当日は、踏破参拝者や勇壮な武者行列が続き、境内では相撲、剣道など各種武道大会が行なわれ、熱戦が繰り広げられます。このほか、太田太鼓踊りや徳重大ばら太鼓踊りも夜遅くまで次々と奉納されます。
永平橋上での火縄銃の一斉射撃 神之川の支流、下谷口川が伊集院町の中央通り商店街(銀天街)を 横切るように流れているところに永平橋はあります。 嘉永2年(1850年)に木橋が石造りの眼鏡橋に架け替えるときに 西郷隆盛が書いた永平橋の記念碑が今も残されています。 |
平野二郎国臣歌碑 |
平野国臣は福岡藩士であり、尊皇憂国の士、西国志士との挙兵倒幕を企て、 薩摩藩へ来たとき、自分の熱烈な気持ち歌ったものです。 城山トンネルから妙円寺団地方面へ100m位の場所に建立されています。 |
有馬新七の誕生地記念碑と墓 |
有馬新七は、幕末の尊攘派志士、諱は正義、号は武麿、植鈴子、寺田屋騒動で薩摩藩同士の斬合いとなり、壮絶な死を遂げた。「有馬翁誕生之地」記念碑は、誕生地である小城に建立されていたが神之川の河川改修により、現在の地に移されている。 平野二郎国臣歌碑と道路向かいにあり、城山トンネルから妙円寺団地方面へ100m位の場所に建立されています。有馬新七の墓は伊集院町下谷口、伊集院幼稚園近くの墓地に改修建立されています。 |
伊集院の風景・四季 | ||
伊集院の四季折々の風景・街角を撮って、掲載してゆきたいと思います。 逐次、追加してゆきますので、ご覧になってください。
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伊集院関連のリンク先 | |||
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